自身のADHDと向き合う~発達障害グレーゾーンからの解放

発達障害

出典:Photo by David Marcu on Unsplash

私は現在、関西の就業移行支援事業所に通いながら障害者手帳の取得と再就職に向けて活動をしています。

最も長く続けた機内食ケータリングの委託会社を自主退職した後、地元の病院でWAIS‐3(ウェイス・スリー)という検査を受けたのですが、その時はADHD(注意欠陥多動性障害)にもASD(自閉症スペクトラム)にも該当しない、いわば、発達障害グレーゾーンと診断されました。

しかし、就業移行支援事業所のスタッフの方に「もう1度診察を受けてみては」と提案されたので、承諾した私は関西の診療所で再検査したところ「ADHDからくる軽度のうつ病」と診断されまして、現在にいたります。

そんな私が発達障害の診察にいたった経緯を書きますので、みなさんの参考になれば幸いです。

思い出した自身の課題

幼少期のころから、私は周りの人とどこか、かみ合わない行動をすることがあることを、人からよく指摘されてきたので自覚していましたが「発達障害」という言葉を初めて聞いたのは社会人になって8年ほどたったときでした。

検査を受けようと思ったきっかけは、機内食ケータリングの職場で、ある従業員から私の作業中の行動や振る舞いに問題があると強い言葉で指摘されたことです。

私の担当は1人での作業で、思い返せば、そこでの業務内容は私の性格とすごく適性が合っていました。

しかし、長く続けることで作業に対しての改善が通らないことや、繁忙期の仕事量をこなすのに雑談や笑い声が入ると、集中できないことにイライラしたりして、機材を置く際に音を立てるほど雑になってしまったり、常に急ぎ足で進めていたので人とぶつかりそうになっていたこと、などを指摘されるようになっていきました。

そこで素直に従っておけばよかったとも思いますが、その当時はどうして作業中のことについて指摘されるのかが全く分かりませんでした。むしろ、作業場で笑い声をあげる人やそれに対して同じように笑う人たちに敵対心を持つようになっていたので、職場の人間関係が嫌になり、孤立していきました。

最終的に退職した私は「自身の成長」なんて妄想を膨らませており、人と話さず黙々とおこなう作業であればどんな仕事でも適応できると思っていたのです。 しかし、その後転職した運送会社の軽作業と病院の清掃の仕事で体力面がうまく適応できず、どちらも半年足らずで退職してしまいました。

そのとき、引っかかったのが機内食ケータリングの職場で指摘されたことでした。なぜならそれは、私が小学生時代からずっと指摘されたことだったからです。考えないようにしていたのはやはり、誰かに「どうしてそういわれてしまうのか」を相談したところで聞いてもらえないことがわかっていたからです。

それでも、私はどうしても過去に様々な人をイラつかせたモノの正体をずっと知りたいと思い、たどり着いたのが発達障害のことをかいたWebサイトでした。

私と発達障害

発達障害は生まれつきの特性であり、病気ではありません。なので、不適切な養育やいじめなどの環境、人間関係のストレスが原因で大人になってから発症するものではありません。それを踏まえたうえで、発達障害の特性の中で特に私に当てはまると思ったのはADHD(注意欠陥多動性障害)とDCD(発達性協調運動障害)とLD(学習障害)の3つで、私の経験からそうではないかと思った理由があります。

まずADHDだと思ったのは、私は幼稚園および小学校が最初、何をするところなのかが全く分からなかったことです。

なぜなら、幼稚園のころはみんなが遊具を片づける時間のときに、私はよくひとりで外に飛び出して先生から叱責されました。また、小学1年生のころは衝動性と多動性のためか、授業中に抜け出して隣のクラスの授業を聞いていたりしました。そして好奇心が悪い方向に働き、火災報知器を無断で鳴らしてしまったり、面識のない上級生をほうきの柄で殴りかかったりしてしまったのです。

当時は善悪の判断がつかず、そのような行動をとっていたため、私は一時期、普通学級から支援学級に移されそうになったそうですが、母が先生方に抗議したことで取りやめさせたそうです。当時、母と担任の先生からの叱責が最も激しかった時期で苦労したのを今でも覚えていますが、その後、授業中に無断で抜け出すことはなくっていき、小学2年生からは集中して授業を聞くようになったので、小学校はずっと普通学級で過ごしてきました。

またDCDの特徴に「極端な不器用さ」とありますが、小学1年生のころは鉛筆をどれだけ正しく持とうとしても持つことができず、ひらがな五十音をすべて書ききることが年内にできませんでした。現在も指摘に応えようとするのですが、文字の大きさがまばらになったり、直線が歪んだりするなど、人から見ればかなり読みにくい文字を書いてしまいます。

さらに、運動面でも鉄棒と器械運動と水泳の基礎をほぼこなすことができず、球技でもルールや状況に合わせて行動を合わせることができないため、体育の授業や中学生のころ在籍していた卓球部ではクラスメイトと部員からよく反感を買い、私に対するいじめもありました。なので現在もスポーツ中継をテレビで見ることは少しありますが、実際にプレーすることとファンになることは苦手です。

LDに関しても算数および数学が特に苦手で、文章問題の際、四則演算のどれを使えばよいか文章から読み取ることができず、計算できたとしてもかなり時間がかかってしまうため、テストの答案を埋められないことが多かったです。ただ、高校には進学したかったので、中学3年生から塾に通わせてもらい、証明問題などは教科書の問題を丸暗記することでテストを乗り越えました。高校時代は1年生のときしか数学の教科自体がない学校だったので、卒業は何とかなりましたが、アルバイトの試験問題では計算問題が時間内に終わらず、社会人になってからは高校時代の友人との食事で、割り勘の暗算が咄嗟にできなくて劣等感もありました。

なぜ「発達障害グレーゾーン」だったのか

機内食ケータリングの委託会社を自主退職した後、知人のすすめでハローワークの障害者相談員に相談しました。そこで地元の診療所を紹介されて診察を受けたのですが、その場所では発達障害の検査ができなかったので、隣町の病院で「WAIS-3(ウェイス・スリー)」という16歳以上を対象とした知能検査をうけました。

後日、診断結果を聞きにいくと、そこには「早とちりしやすい」や「考えていることを簡潔にまとめるのが下手」ということと同時に「ASDにはあてはまらない」とだけ用紙に書かれており、診療所の先生から「発達障害ではない」といわれました。しかし、インターネットの情報と私の過去を照らし合わせるとどうしても診断結果に納得がいかず、ハローワークの障害者相談員に診断結果を見せて「ADHDの可能性はないか」と尋ねたところ、相談員から「ASDでないのならADHDにも当てはまらない」ということをいわれてしまい、一度は途方に暮れました。

発達障害は長い間、児童精神科や小児科が担当するものだと考えられてきたため、成人期に発達障害を疑った人に対して医療の対象になること自体が稀です。また、発達障害は生まれ持った特性のため病気とは捉えられず、診断を出すのが難しい場面があります。

そこには発達障害自体うつ病や不安障害など、他の精神疾患を併存しやすいところから、そちらの症状が強く見られると根本の問題である発達障害に医師が気付けない場合があるようです。実際、私が関西の就労移行支援事業所の紹介で再検査した診療所でも「ADHDからくる軽度のうつ病」と「うつ病」として診断されました。

ちなみに私が再検査で行ったのは「バウムテストを用いた性格検査」で、その理由は「WAIS-3はIQ(知能指数)だけを見る検査で発達障害であるかどうかはわかりづらい」と診療所の医師から教えていただきました。

おわりに

私が就業移行支援事業所で訓練をして5か月になりますが、社会人としての考え方は難しく、人との付き合い方は苦手なままです。私のADHDおよび軽度のうつ病に関しては現在、医師から「投薬の必要はない」とのことなので服薬していませんが、今後、再び特性によって適応できない場面で不安を感じたときに飲むことになるのかと思うと不安もあります。

しかし、ADHDと診断されてはじめに思ったのは「グレーゾーンから解放された」ということです。過去に迷惑をかけた問題行動の正体を知っただけでも、私にとってはプラスになりましたし、人と違う苦しみに直面して乗り越えようとするからこそ語れるものがあることをまだまだ信じています。

今はわからないところをよく相談し、不安が来たときに対処できるよう、力強い気持ちを保って生きていきたいと思います。

参考文献

「発達障害はなぜ誤診されるのか」岩波 明 著 株式会社 新潮社 2021年2月25日 5p,6p,7p,8p

【てんかんと発達の横浜みのる神経クリニック DCD:発達性協調運動障害のページ】
https://minoru-shinkei.jp/

ルピナス

ルピナス

社会人になってからADHDおよび軽度のうつ病と診断されました。
現在、再就職にむけて就業移行支援事業所で訓練をしています。
たまに挑戦していることはスパイスカレー作りで、上達したいと
思っています。

注意欠陥多動性障害(ADHD)

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