餌付けをやめなさい

暮らし

Photo by 🇸🇮 Janko Ferlič on Unsplash

「彼女は知床の森に生まれ、またその土に戻って行くはずだった。それは、たった1本のソーセージで狂いはじめた。何気ない気持ちの餌やりだったかもしれない。けれどもそれが多くの人を危険に陥れ、失われなくてもよかった命を奪うことになることを、よく考えてほしい」(知床財団「ソーセージの悲しい最期」)

正直、屈強で頭も回り殺傷能力も凄まじいヒグマには例えたくないのですが、現実だけでなくSNS上でも野生動物への餌付けは止めていただけませんかね。この間もきょうだい児と思しきアカウントが暴れて、キレイゴトを嫌う野生動物がゾロゾロ群れてきたのですが。障害当事者による自虐を装った餌付けも多すぎますので、そちらも控えてほしいです。

確か「『どんな命も愛されるべき』というなら重度の障害者と一緒に生活してみろ。世の中には障害者が身内というだけで苦労している人が大勢いる。現場の苦労を知らないで好きかって言わないで貰いたい」とか「赤ん坊の感情表現を成人しても続けるのが知的障害者。赤ん坊の癇癪を成人の力でされ続けることの意味を少しは理解するべき」とか「親亡き後は一生養わねばならない。そこに自分の人生は──ない」みたいなことを言っていた気がします。乙武洋匡さんのご両親やヘラルボニーの創業者などの前でも同じことを垂れ流せるでしょうか。

同じく障害者の身内を持ちながらも不貞腐れずに、自立した一つの命として慈しむ家庭はごまんといます。対して、障害者の身内という環境にいつまでも不平不満を並べて成長しない家庭。この差はどこから来るのかというと、素直に助けを求めて繋がれる、語弊を恐れず言えば「依存先の多さ」ではないかと考えています。素直に公的な支援を受け、素直に近隣や親族と関わりを保ち、孤立して抱え込むことを避ける。これは、中途採用の職場で年下の上司や先輩に教えを乞えるかどうかという社会性にも通底しています。変にプライドが邪魔してやせ我慢すると、却って「どうして自分ばかり」みたいな思考に陥り社会を憎むようになる訳ですね。

SNS上で呪詛を吐けば幾人かの同調者が集まりヨシヨシしてくれるでしょうが、一時の快楽でしかないでしょう。移り気で浅薄な彼らがいつまでも寄り添ってくれる筈はありません。そうなると、与えられたカードにいつまでもグチグチ垂れている“成長しない身内”もまた、餌を求めて人里を徘徊する野生動物と成り果てるのではないでしょうか。それはSOSや支援とは程遠いものです。寧ろ、“立ちんぼ”に近いのではないでしょうか。

別に窮状を叫ぶこと自体が悪というわけではありません。ただ、ちゃんとした支援の導線に立ち、孤立して抱え込む環境を改善すれば見えてくる景色はある筈です。それすら面倒だというのであれば、もう何もかけてやれる言葉はないのですが。

参考サイト

ヒグマと生きるために(知床財団の活動)
https://www.shiretoko.or.jp

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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