安楽死と間引き、100年以上前から変わらぬ極論

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Photo by Solal Ohayon on Unsplash

医師を名乗るアカウントが「両親が生かすというなら応援するが、産んだなら死ぬまで親が責任を持てというのは無慈悲だろう。重度身体障害を持つ者には『安楽死』が認められる社会の方が絶対に良い」などと投稿し、主にABEMA.TVで大騒ぎとなりました。

寝たきりや医療的ケア者などを養いきれないという理由で安楽死の導入を望む声というのは偶に上がってきます。死の一線を越えるかどうか、取り返しのつかない選択ですが、もし自分の身体機能が意思表示も出来ないほどになったらと思えば多少は“揺れる”でしょう。しかし、単なる『間引き』としての目的で安楽死を礼賛する有象無象が蠢いている以上、安楽死の合法化ないし制度化を首肯することは出来ません。

安楽死賛成を謳う中には「とにかく自分の冴えない人生を、国が責任を持って終わらせてほしい。他の命など知ったことではない」という身勝手な者や、ただ単に障害者を間引く道具として歓迎する者が大勢潜んでいます。これらが終末医療の議論に紛れ込んでいるせいで、賛成派の思想そのものが倫理観を疑うレベルに落ちています。いわゆる「腐ったミカン」です。

では間引きがどうのといった低倫理な思想を切り離せばいいかというと、別にそうでもありません。どの合法国も、終末医療だけに限定して導入したはずが、いつの間にか間引きや口減らしに使われているフット・イン・ザ・ドア的な経緯を辿っています。特にカナダは導入から数年程度でこの道を通っており、国連障害者権利委員会からも「障害者に圧力をかけて安楽死を選ばせる、“間引き”が横行している」との指摘を受けています。

間引きとしての安楽死導入を望みながら、表向きは終末医療を盾に繰り言を並べる者も多いです。しかし簡単に“転用”される以上、安楽死において終末医療と間引きを切り離すのは不可能です。間引きの横行というかジェノサイドを防ぎたいのであれば、入口が少ないうちに塞いでおくのが合理的というものですね。

そもそも、安楽死の名のもとに間引きをしようという運動は100年以上前からありました。1920年のドイツで、精神科医アルフレート・ホッヘと法学者カール・ビンディングが共著した「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」において、精神障害者と知的障害者、そして終末医療患者の安楽死を奨励していました。二人は色々と繰り言を並べていましたが、要するに「国家運営において邪魔だから」という理由です。出た当初はトンデモ本扱いでしたが、ナチス政権に拾われると一転して金科玉条の存在となり、クナウアー事件とT4作戦、そしてホロコーストへと繋がっていきました。人類史は既に“過ち”を犯していたのです。

安楽死という名の間引き活動について、T4作戦に反抗したフォン・ガーレン司教が既にこのような“論破”をしていました。
「『生産性のない人間』への殺害が認められれば、誰もが安全ではなくなる。何処かしらが『生産性のない人間』を判定すれば、好き勝手な殺害から我々を守るものが無くなるからだ」
「生産性を他者から認められる者だけ生きていいというのなら、年老いた人はどうなる?働き続けて身体を壊した人は?お国の為に傷ついた兵士たちは?『生産性のない人間』への殺人をひとたび認めれば、際限なく全ての人間が自由に殺し合えるようになるだろう」

なお、ABEMAの方では筋ジストロフィー者の母親が取材に応じており、「娘が大切であることに変わりはないが、それでも邪念がちらつくことはある」としながら、休養のため一時病院や施設に入院ないし入所する「レスパイト」について提案していました。こうした建設的な提案のもと終末医療や医療的ケアの負担緩和を実らせていき、安楽死を俎上に上げないよう努めるのが、100年前に道を誤った先達への答えであり手向けとなります。

参考サイト

重度障害児の“安楽死容認”医師投稿に波紋
https://news.yahoo.co.jp

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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