「変えられるものは、差別していい」と思い至る子らがいます

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Photo by Zachary Kadolph on Unsplash

性別、出自、出身地など、生まれつき変えられないものは数多くあり、それを理由に差別や迫害を加えるのは卑怯で非人道的だと教えられてきた筈です。しかし一部の、叩くものなしに生きていけない依存症気質の人々にとっては到底納得できるものではありません。自分たちの生き方そのものを否定されているに等しいからです。

そこで彼/彼女らは考えました。「後天的にいくらでも変えられるものなら、差別や迫害は許される。なぜならば、向こうの自己責任だから」と。ですが所詮は我欲を満たすためだけの浅知恵なので、名案どころか穴だらけの屁理屈に過ぎないのですが、本人たちはそれに気付きませんし気付こうともしません。

この可哀想なお友達が言う所の「変えられる」には、「理論上は変えられるが現実では難しいもの」「仮に変えても来歴として残り続けるもの」「実際は変えられないもの」が数多く存在します。性格、学歴、顔貌、職業、趣味、嗜好、病気などです。不変を可変と強弁することで、勝手に作った「叩ける基準」にあれこれ放り込んでいるのが実態でしょうか。

分かりやすい例が、発達障害の存在を必死に否定する反医療ムーブメントです。知っての通り発達障害は先天性にして不変、生まれつきの一生モノですが、それではあまりにも都合が悪いのか「甘え」「気持ちの問題」と矮小化して乗り切ろうとしています。そのような蠢動がなくとも、元からポリコレなどで守られる側には弾かれていたのですけれども。

変えられる属性というのは思い込みに過ぎず、実際には変えられないものが多いです。本当に変えられるものがあるとすれば、それは他人の尊厳を貶めることでしか自分を維持できない趣味や思想、すなわち「変えられる属性は差別していい」と正当化する子ら自身です。万人の尊厳を守るには、他人の尊厳を踏みにじる生き方しか知らない者らを“区別”し、然るべき対応を取らねばなりません。差別の正当化を求める彼/彼女らの方にこそ「甘えるな」と突っぱねていかなければ、守り通せないものは数多くあります。

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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