我はてんかん。故に我在り~てんかんになってからの生き方
その他の障害・病気出典:Photo by Shaurya Sagar on Unsplash
「診察の結果、てんかんです。自動車の類は今後、乗らないでください」ときはリーマンショックから数年。地方の政令指定都市でパート従業員をしていた私は、主だった移動手段を失いました。
少年時代~診断のない時代
「てんかん」は、脳細胞間の電流が過剰に流れることで起きる心身の発作をともなう病気です。発作の具体的な症状やその強さは人によって様々ですが、私の発作は意識障害と主とするものでした。
では、私がてんかんを発症したのが、いつだったのかというと、正確な日時はわからないのです。記憶に残っているのは小学校1年生のとき「集団下校をしているときに、不意に意識が途切れた」ということだけでした。その後は「運動会で徒競走のときに、唐突に走り方が遅くなる」「サッカーの最中に意識が途切れ、唐突に行動を変える」などの、奇妙な行動におよぶだけでした。
これらの正体は「てんかんによって意識障害が発生し、直前の行動が失われる」というものです。それを知ったのは、20代も後半になってからでした。
ある日「呆然とするだけのてんかん」という病気の存在を知ったのです。それについて調べていく段階で「自分も、もしかしたらこの病気なのかもしれない」と危機感を覚え、神経内科の門を叩きました。
診断が下ってからは
冒頭のように「てんかんです」との診断が下ってからは、生活が一変します。
これまでの「奇妙な行動」が「てんかん」という、完治困難の病気としてついて回ります。まず、これが「どういったものなのか」「どういった病気なのか」ということを調べることにしました。本屋へとおもむき2冊3冊ほど、初心者向けの医学書を買い、ノートに書き写していく作業です。
そんな中、母の計らいで知ったのがてんかん協会です。そしてそのてんかん協会が、会合していることを知りました。
「どれ、1度参加してみるか」という程度です。それでも、確かな興味関心を覚え、てんかん協会の会合へ参加を決めたのです。そしてそこには、てんかん患者本人や保護者、医療関係者を交えた多くの人がいました。初心者向けの講座から最先端の研究にいたるまで、充実した内容でした。私自身に大きな変化はありませんでしたが、それでも何か、胸に残る物があったと思います。
日常的な服薬の、最大の敵
さて「てんかん」の診断が下りました。ということは、ここから闘病生活が始まるわけです。
てんかんの闘病生活は基本的に「服薬」です。他には「迷走神経刺激法」「脳のリラックス」や「基本的に断酒などの、生活習慣見直し」もあるようですが、ここでは割愛します。
みなさん「てんかん病における、日常的な服薬」についての、最大の敵は何だと思いますか?答えは「自覚症状が無ければ危機感が薄れる」という点です。
私の知っているてんかん患者の中にも「てんかんも減ってきたし、もう抗てんかん薬はいいや」という方がいました。ですが、薬を飲み続けなければ、てんかんの発作と悪影響はいつまでも続きます。逆を言えば「抗てんかん薬を飲み続ければ、いずれ発作はゼロにできる」ということです。事実、てんかん患者の内、7割8割の方は、薬のみで抑制が可能なのです。
こればかりは習慣づけるしかありません。家の目立つ場所に薬用のカレンダーを架けるなどして、自分にあったやり方で習慣づけていきましょう。
いつか笑って過ごせるために
てんかんを受け入れなければ、自分勝手に薬を断って発作を起こし、制御不能となって自滅。あるいは、他人を巻き添えにして、事件化。そればかりか、最悪の事態を想定しますと自分の命を落とすでしょう。
間違いなく「受け入れる」必要はあります。「受け入れる」とは『自分がこんな風に変わったのだ』と「以前との違いを認識すること」です。短い時間では難しいですが、いずれ心と身体に馴染むでしょう。
また、カムアウトが尊ばれて久しい時代ですが、何も1から10まで友人知人に明け透けにいう必要はないと思います。事実、私も家族以外誰にもいわず、物見遊山気分でてんかん協会の会合に参加しました。
そのようにして、まずはてんかん仲間を探すも良いですし、抗てんかん薬を飲んで発作がなくなれば、シレッと何も言わずに黙々と生活をしていてもいいと思います。そうすればいずれ「てんかんを持った自分」として自然に生活できます。
後は私みたいに「電車に乗ってて駅に着いた。降りようと準備をして扉が開いた瞬間にてんかん発作で意識ブツンよ。それで扉が閉まったと同時に意識を取り戻して、そのまま次の駅まで流されたわワハハハ」などと笑い話にできたら、いいかな、と思います。
参考文献
日本てんかん協会 てんかんについて
https://www.jea-net.jp