ロボトミー手術の祖、エガス・モニスとウォルター・フリーマン
その他の障害・病気精神医学の歴史上でも特に悪名高い所業の一つに「ロボトミー手術」があります。ものすごく端的に言えば、脳の前頭葉を一部切除して感情などが湧かないようにする手術で、精神医学の未熟だった時代は画期的な方法として持て囃されました。それが時代の進歩につれて評価を地に落としたのは知っての通りです。
これを生み出したのはポルトガルの医学者エガス・モニスです。そして、モニスの生み出した方法をより粗雑に改悪して全米に広めたのがウォルター・フリーマンです。精神医学の汚点であり負の遺産であるロボトミー手術は、どういった経緯で生まれ広まっていったのでしょうか。
エリート街道を走る
ロボトミー生みの親であるエガス・モニスは、1874年にポルトガルの小都市アヴェイロで生を享けました。彼の生家であるレセンデ家には貴族の先祖がおり、その名前であるエガス・モニスを引き継いだ経緯があります。
幼い頃から聡明だったモニスは、やがてパリへ留学し臨床神経医学を学びます。そして帰国すると、弱冠28歳にしてコインブラ大学医学部の教授になっただけでなく、国会議員にも立候補し当選するなど、エリート街道をひた進みます。
一方、モニスには血気盛んな一面もありました。当時のポルトガルは君主制と共和制が争う時代だったのですが、その共和制の支持者だったモニスは学生時代に反君主制デモへ参加し2度も逮捕されたことがあります。37歳でリスボン大学の医学部長に就任した直後も、共和派の学生を捕まえる君主派の警官に反抗して3度目の逮捕を受けていました。
聡明で血気盛んといえば、ロボトミー殺人事件の犯人である桜庭章司もそうでした。桜庭は終戦後に英語をマスターしGHQに雇われるほど聡明な男でしたが、地元に転職してからは不正に立ち向かって返り討ちで逮捕されることが何度かありました。桜庭も手術まではスポーツライターとして同世代より多額の富を築き成功していました。
そんな桜庭をも凌駕する立身出世をモニスは続けていました。第一次世界大戦の最中に外務大臣となったモニスは、パリの講和会議に向かう全権大使として選ばれるまでになったのです。これはポルトガルの政治的頂点に立っていることを意味し、次の大統領さえ狙える位置に居ました。
しかし、当時のポルトガルはクーデターに次ぐクーデターで極めて不安な政治情勢でした。これを嫌ったのか、モニスは講和会議から帰るなり政治家を引退し、「精神外科」の研究へ打ち込むようになります。
医学一筋となったモニスは、まず脳の血管をX線撮影する「脳血管造影法」について研究するようになります。この研究は今でいう脳MRIの始祖でもあり、モニスは「人類史上初の脳血管造影図を作った男」「脳を初めて視覚化した人物」として持て囃されました。ノーベル賞の候補にまで挙がったそうですが、脳血管造影法での受賞は叶いませんでした。
史上最悪のノーベル賞
ノーベル賞を逃し挫折してから約8年後の1935年、ロンドンの国際神経学会に出席したモニスは興味深い発表に遭遇します。それはチンパンジーの前頭葉を切除する研究の報告で、激しく暴れるチンパンジーが大人しくなったというのです。モニスはこれを人間にも応用できないかと考え始めました。
モニスが考えたのは、前頭葉の白質だけに手を出す方法でした。白質は多くの神経線維が複雑に入り乱れて白く映ることからそう呼ばれており、モニスは「固定化された回路を切除するなり麻痺させるなりすれば精神疾患は治るだろう」と踏んだのです。
そうして編み出された方法は、細い管を前頭葉に差し込んで白質の部分で回すというもので、ギリシャ語の「白(leuco)」と「切除(tome)」から「ロイコトミー(leucotomy)」と名付けられました。ロンドンの学会から半年後には、20例ものロイコトミー手術が報告されています。わずか半年でここまで急いでいるのは「先取権」欲しさからだったと言われています。
1949年、モニスはロイコトミー手術によって念願のノーベル生理学・医学賞を受賞しました。現在はロボトミー手術の被害者団体からモニスの受賞を抹消するよう何度も申請されており、「史上最悪のノーベル賞」とまで揶揄されています。
それでもモニスは、ポルトガルにとって唯一のノーベル賞受賞者であるためか、死後も丁重に扱われています。モニスの生家は、生前に集めていた美術品などを展示する「エガス・モニス美術館」となり、最大の病院であるポルトガル国立病院が「エガス・モニス病院」に改名されました。
ちなみに、受賞の10年前にモニスは銃撃による後遺症で半身不随となりました。ロイコトミー手術を受けた患者からの報復という説もあれば、単に統合失調症の妄想で撃ったという説もあります。
横着医師
モニスがロイコトミー手術について報告した時、世界各国からそれなりに注目が集まりました。その中で殊更関心を抱いていたのが、もう一人の主役であるウォルター・フリーマンです。フリーマンはロイコトミー手術に必要な器具の入手法を尋ねるなど、尋常でない興味を示していました。
フリーマンはモニスにたいそう心酔しており、モニスがノーベル賞を受賞できたのもフリーマンの働きかけがあったからだと言われています。
ロイコトミー手術をアメリカに輸入したフリーマンは、神経外科医ジェームズ・ワッツを介して早速自分の患者にこれを実施し、これを「ロボトミー手術」と呼んだうえで学会に報告しました。ロボトミーという造語はフリーマンが生み出したもので、脳の白質よりもさらに大きな単位である「葉(lobe)」に由来するそうです。
全米初のロボトミーを受けた患者は確かに穏やかにはなりましたが、言葉は呂律が回らず誰にも読めない字を書き、コミュニケーションが成立しない状態でもありました。当時からフリーマンは、「それは治療できたとはいえない」と一定数の批判を受けていたようです。
そんな批判をよそに、ニューヨークタイムズ紙などの大手マスコミはフリーマンのことを「精神病治療の転換点」などと持て囃しました。当時のアメリカは精神病患者が約40万人にまで膨れ上がっており、対応する医療従事者の不足に悩まされる状況でした。そのような背景もあって、フリーマンによる悪魔の囁きは全米に浸透していったのです。
やがてフリーマンは、ロボトミーの簡便化を求めるようになります。上瞼から眼窩を通って大脳にアクセスする方法を知ったフリーマンは、「経眼窩ロボトミー」という新技法を編み出しました。これは細い金属棒を先述の経路で突っ込み前頭前野皮質を弄るというショッキングな方法でした。別名「アイスピック・ロボトミー」とも呼ばれており、実際にアイスピックを用いていたとも言われています。
このような施術を受けた患者は、寝たきりになったり感情が欠如したりと散々な予後を「治療成功」と謳われる憂き目を見ました。横着の末に残虐な方法を編み出すフリーマンに嫌気が差したのか、盟友ワッツは彼を見限り去っていきました。逆に世間は、短時間で簡便な「治療法」を激賞しており、フリーマンの暴走はエスカレートしていきます。
アメリカの暴走特急
周りからチヤホヤされている上にワッツのお小言もなくなった状況で、もはやフリーマンの暴走を止められる人間はいません。外科手術のことを有資格者のワッツに任せていた過去も忘れ、フリーマンは全米を行脚しロボトミー手術を請け負うようになりました。その様子は「ロボトモバイル」「ドライブスルー・ロボトミー」などと呼ばれています。
外科手術のノウハウもろくに積まないまま全米で災禍をばら撒くフリーマンの独りよがりは留まるところを知りません。ジョン・F・ケネディの妹ローズマリー・ケネディは、フリーマンの毒牙にかかった有名な人のひとりです。また、同じ患者に3度もロボトミー手術をして脳溢血で死なせるなどの醜態も晒しています。
やがてフリーマンを受け入れる病院も減っていき、1967年には唯一許可していた病院からも締め出されたことでロボトミー行脚は終わりを告げました。5年後の1972年、フリーマンは結腸癌により世を去ります。
フリーマンが全米を行脚した別の理由に、ロボトミー手術の宣伝とスタッフの育成もありました。しかしアメリカ世論は人権意識の高まりからロボトミー手術の否定へと傾いており、全米に広がるどころかフリーマンの活動範囲もろとも狭まっていく結末を迎えます。
フリーマンが亡くなった3年後に日本で「精神外科を否定する決議」が可決されるなど、ロボトミー手術はその立ち位置をもはや失いつつありました。モニスが生み出した「精神外科」の概念は、フリーマンの死によって完全に廃れたと言ってもいいでしょう。
ところで、同様のスキャンダルである「臺(うてな)実験」の執刀医に廣瀬貞雄という男がいるのですが、彼は後に日本医科大学名誉教授となり、勲四等瑞宝章まで受章しています。ロボトミーに関わった医師というのは、どうにもお咎めなしで済まされる傾向が強いようですね。不遡及と言ってしまえばそれまでですが。
参考サイト
【天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち】第14回 エガス・モニス
https://shuchi.php.co.jp