映画の中の障害者(第1回) 「コーダ あいのうた」「サウンド・オブ・メタル」
エンタメPhoto by Geoffrey Moffett on Unsplash
今回から連載を始める新潟県在住の映像作家MXUです。自主映画を作り続けて、2018年には障害者差別をモチーフにした長編映画「BADDREAM」を監督し、障害者ドッコムさんと上映会を大阪で開催させていただきました。また現在は「多様性」をモチーフにした短編映像を毎月発信するプロジェクト「NICEDREAMnet」を主宰しています。ちなみに高校時代に発症した内部機能の難病で障害者手帳を取得しています。そういった体験を踏まえてまずは「映画の中の障害者」をテーマに連載していき、「多様性」について掘り下げていくことができたらです。ご感想などいただけると励みになります。どうぞよろしくお願いします。
※注意・・・以下映画のネタバレを含みます
〇映画の中の聾者(ろうしゃ)
先月開催されたアカデミー賞は、日本映画が初めて作品賞にノミネートされるなど近年になく話題になりました。コンペは一番優れた作品を選ぶものとは思っていないし、あくまでお祭りではあるのですが、私が注目するのは「ハリウッドの理想」を伺い知る貴重な機会になるからです。その理想から生まれた映画が世界に広がっていくことに毎度興奮します。近年は「多様性」を推し進めていて、大物プロデューサーによる性犯罪を皮切りにした#MeToo運動などを経て、スタッフ・演者に一定数のマイノリティを入れないと選考対象にならないなどより一層急進的になってきています(素晴らしいことだと思います)。
今年も助演女優賞のアリアナ・デボース(ウエスト・サイド・ストーリー)はLGBTの有色女性として初、助演男優賞のトロイ・コッツアー(コーダ)は聾者男性として初受賞となり、両者のスピーチはとりわけ感動的で心揺さぶられました。
さて、作品賞を受賞した「コーダ あいのうた」、2021年にノミネートされた「サウンド・オブ・メタル~聞こえるということ~」は聾者(聴覚障害)や家族が主人公となっています。また、今年同じく作品賞を競った日本映画「ドライブ・マイ・カー」も声が出せないため手話を言語とする女性が重要な役回りをします。また、マーベル映画「エターナルズ」では聾者女優のローレン・リドロフがスーパーヒーローを演じています。聾者及び手話という言語にかつてなく注目されているといえます。 ※ちなみに聾者と比較する人称として「健聴者」という言葉がありますが、最近は単に「聴者」が使われるようになっています。
○「聾者は障害者か?」という高校生からの問い
もしも、健聴者が生きる社会と聾者が生きる社会にはっきりとした境界があり、お互いに関わりを持たなかったら、社会で言われる「聴覚障害者」は全員、自分のことを「障害者」だと思わず、「聾者」という普通の人間として生きていたのではないだろうか。
しかし、現実はそうではなく、現実社会で生きていくためにはどうしても健聴者と共生しなければいけない。さらに、日本に住む聾者は「日本人」でもある。日本に住んで社会参加していくからには、日本語を習得し、様々な知識や技能を学び、日本文化に対する理解を深めることが必須である。
これは、全国高校生読書体験記コンクールで最優秀賞に選ばれた聾者の女子高校生・奥田桂世さんによる文章です(本文末の下記リンクに全文掲載されています。素晴らしい内容なのでぜひご覧ください)。そして、彼女の居心地の悪さや願いがそのまま私の「コーダ」と「サウンド・オブ・メタル」への考察につながります。
彼女は家族全員聾者であることで何も違和感なく生活してきましたが、日本社会で大多数の聴者と生きる中で、「かわいそうな障害者」としてのレッテルを貼られることに率直な憤りをぶつけています。聾者は手話という言語を持っているから独自のアイデンティティを持っていて、彼女は自分たち聾者を「種族」と捉えます。読後初めは「聾者は障害者じゃない」という言葉に逆に差別的なものを感じてしまったのですが、日本社会での障害者への認識を考えるともっともだし、さらにそれを変える具体的な手段(「障害者」という言葉をなくす)まで提案している所が大変鋭くて、考えさせられました。
さて、彼女の葛藤や憤りは「多様性・共生」と「同質性・排除」の対立に起因すると言えるでしょう。聾者としてのアイデンティティ(同質性)ゆえに聴者と共に生きること(多様性)から阻害させられている。そしてこの対立が「コーダ」と「サウンド・オブ・メタル」にも現れています。この対立を軸に両作品の考察(及び願い)を記したいと思います。
○理想の共生社会を描く「コーダ」
「コーダ あいのうた」は、2014年フランス映画の「エール!」のハリウッドリメイクで、聾者の両親と兄と暮らす聴者(コーダ…Children Of Deaf Adults)の女の子が歌の才能を発揮してく作品です。実際の聾者俳優が演じるなど、当事者主体になっていて、多様性を踏まえたハリウッド最新型の制作スタイルが実現されています。
作品については、見事な脚本にうなされました。細かい描写一つ一つが全部つながってちゃんと物語に昇華されています(下品な手話のギャグも)。ここでは聾者家族は漁を営み、社会の中で逞しく生きていて、後半は事業まで立ち上げて聴者を引っ張っていきます。健常者の成長物語のための踏み台(カセ)としての障害者消費を少しでも避けようとしていたのにも好感が持てました。
「コーダ」は、今のハリウッドが推している「多様性・共生」への夢が詰まった作品です。ご都合主義的な部分もあり、当事者マウントで荒探しもできると思いますが、「こうあって欲しい世界」という作り手の願いが作品全体から溢れていて、実際塗り替えていっているだろう事実に感動します(大好きな青春映画「ブックスマート」(2020年)にも近い作風)。再上映もされているのでぜひ多くの方に見ていただきたいです。
○シビアな現実を描く「サウンド・オブ・メタル」
一方「サウンド・オブ・メタル」は同じ聾者を描きつつ「コーダ」とは異なる展開を示します。彼女とハードコアメタルグループを組んでいるドラマーの主人公が、突然難聴になります。その過程で、彼女の勧めで聾者のコミュニティへ入所します。そこは山の中の聾者だけの施設で聴者社会と断絶されていて、さながら種族のような生活。はじめはなじめなかった主人公もだんだんと打ち解けていきますが、彼女の暮らす聴者社会に未練のある主人公は、高額な人工内耳手術を受けまた以前の生活を求めて町へ戻ります。しかし、かつてのように聴力は戻らず世界は騒音が鳴り響き、最後は彼女と別れ聾者として静寂した世界で生きることを決意します。
※作品はAmazon制作でPrimeVideoで配信されています
「サウンド・オブ・メタル」における「聾」は、「断念と再生」という普遍的な物語を描くためのモチーフで、音のある世界から、静寂な世界でアイデンティティを獲得する過程が丁寧に描かれています。画期的なのは、聴者が聾者となっていく過程を音響として体験できるところで、登場人物と同化することで異なる価値観と触れることのできる映画表現の真骨頂。そして映画で描かれている聾者コミュニティは、先の高校生自身が暮らしてきた文化や暮らしが描かれていると言えるでしょう。
お互いに関わりを持たなかったら、社会で言われる「聴覚障害者」は全員、自分のことを「障害者」だと思わず、「聾者」という普通の人間として生きていたのではないだろうか。
という彼女の問いに対して、映画は聴者社会への断念からの「アイデンティティ=同質性」の獲得を勧めています。
映画の中で、聾コミュニティのリーダーは手術を受けた主人公に語ります。「ここに住む聾者は障害と思っていないし治すものでないと思っている。重要な信念だ。この場所はその信頼で成り立っている。その信頼が壊れると問題が起きる」
そして、このコミュニティに主人公の居場所はないと告げます。集団というのはそもそも同質性により成り立つものであり、この実際にあるであろうコミュニティには厳格な聾者種族としての掟があり、閉じられていることが重要となります。
主人公のその後は明示されていませんが、恐らく破門されたコミュニティへ帰り「聾」種族して生きると受け取るのが自然でしょう。撮影も編集の切れ味も一級で、聾者の文化や暮らしなど相当リサーチしていて丁寧に作られた傑作です。しかし、それゆえにモヤモヤしたものを受け止めてしまいました。
○現実と夢の狭間で
障害を持つ人もさまざまで、中には障害者だけの閉じたコミュニティで生きる方が幸せな人もいるかも知れません。特にこの日本で少数者として生きていくにはタフさが求められます。ただ、それでも圧倒的多数は、「同じ日本人」として社会の中で生きることを望んでいます。
しかし実際、現実は甘くなく、人は自分と同質な者同士で固まりがちだし、異質な者には攻撃的になるし、確かに他人を引きずり下ろすことで快感や安心感を得られる「シャーデンフロイデ」を根本に持っているのでしょう(自戒を込めて)。「サウンド・オブ・メタル」はそういった人間性への厳しい現状認識を踏まえているとも言えます。「多様性は難しい」と考えている(考えたい)多くの日本人にも受け入れやすいでしょう。果たして「コーダ」のような理想の共生社会は断念すべき夢物語なのでしょうか?
人間の本質が差別的であるならば、同質性の追求こそが正しい姿でしょう。ただ、古今東西そうやって「現実主義」の名の元で多数派が少数者を差別して劣悪な環境に追い込んできました。二十世紀を振り返れば、ユダヤ人の強制収容所、南アフリカのアパルトヘイト(黒人と白人の隔離政策)など数多挙げられますし、日本ではハンセン病患者は施設から隔離されてそこから出ることを許されませんでした。障害者施設の多くは町から隔絶された場所に今も多く存在しています。そして、そこで無念の思いで一生を終えてきた数多くの「現実」があるわけです。「サウンド・オブ・メタル」へのもやもやは、作品の着地点がこの現実と地続きであり、それが映画的に覆われているようで、「なるほど、失うことこそ人生だよね」なんて目を細めつつ呟けそうですが、そこに「多様性」までするっと入っているように思えるのです。もちろんアイデンティティの確立に焦点を絞る構成上、どうしても「多様性」と相性が悪くなるのは分かるのですが・・・(ちなみにいちゃもんやマウントにならないよう、3回見た上で書いています。コーダは2回見ました)。
ただ、人間は差別的であると同時に異質な他者と繋がりたいという矛盾したものも持っていると思います。恋愛なんてまさにそうですし、そもそも突き詰めれば人間なんてみんな違うし、それでも人と繋がろうとする「現実」もあるからです。「コーダ」はその現実を生きる人たちの背中を押してくれるように思えます。
両作品を改めて比較すると、正直映画的な質では「サウンド・オブ・メタル」の方が「コーダ」を上回っていると思います。前者は切れ味鋭くまとまっていて後者は逆にどんくさく不器用で説教臭く映ります。これはそのまま「断念」と「諦めなさ」、「現実主義の大人なニヒリズム」と「理想主義が帯びる子供じみたダサさ」の対立とも言い換えても良いでしょう。ただそれでも、私は「コーダ」の「異なる人とたちと共に生きたい」という人間性を諦めない姿勢に心を揺さぶられます。
もし「サウンド・オブ・メタル」の続編を作れるのなら、こんなシナリオはいかがでしょう?聾者として生きることを選択した主人公が、またバンドを組み聾者メタルドラマーとして世界各地のフェスを席巻する。そして、ハイライトは満席のスタジアムで、激しいドラムに合わせて「コーダ」の主人公が手話をつかいながらシャウトする・・・そんな二つの世界がつながるマーベル映画のような高揚する物語を夢想しています。
参考文献
「聾者は障害者か?」若者の問いかけ
https://www3.nhk.or.jp/
「Coda コーダ あいのうた」公式サイト
https://gaga.ne.jp/coda/
「サウンド・オブ・メタル 聞こえるということ」特設サイト
https://www.culture-ville.jp
おススメ聾映画「THE END」(2011年・24分)
※日本語字幕有の短編映画。ぜひご覧ください!
https://www.bslzone.co.uk
「NICEDREAMnet」筆者主宰のサイト。こちらもぜひ!
https://www.youtube.com