通じ合うことは奇跡だとしても〜「海」と言ったとき、あなたが見るもの
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UnsplashのJonathan Beanが撮影した写真
あなたは「言葉って難しい」と感じた事はありますか?
私はいつも、そう思っています。
なぜなら、私にとって言葉とは発した瞬間に他者のものになる不思議で少し怖い存在だからです。
言葉は誰のもの?
頭の中で何かを考えているとき、あたりまえに言葉を使っているのですが、その瞬間、言葉はまだ私だけのものです。 でも、これを他者に向けて発した場合、言葉は私の手を離れ他者の解釈に委ねられます。その段階で元は私のものだった言葉は他者のものとなるのですが、その言葉に対する責任は、依然として私にあるのです。 発した言葉が他者のものとなるとき、すなわち「他者が私の言葉を解釈するとき」私は他者がどのような解釈をするのか知る術はありません。
例えば私が「海」という言葉を発したとき、他者の中に浮かぶのが「太陽がきらめくモルディブの海」かもしれないし「雪が降りしきる荒波の日本海」なのかもしれません。
あなたにとっての“海”は、幼い頃に家族と行った渚かもしれないし、失われた記憶と結びついた無意識下の風景かもしれませんね?
それはあなたの中にある、あなただけの海。
でも、私はそれを「わかること」が出来ないのです。
コミュニケーションへの緊張と恐怖
「言葉」は、その人の記憶や経験、そして背景にある価値観や文化と深く結びついています。そのため、言葉の受け取り方やニュアンスには個人差があるものです。
にもかかわらず、お互いが「わかっているよね?」という暗黙の了解のもとで言葉を放つとき、私はいつも緊張と、少しばかりの恐怖を感じてしまいます。
私が放った言葉が、受け手を傷付ける凶器にもなり得るからです。
一度放った言葉は、もう取り消すことが出来ません。言葉が凶器となるとき、それはナイフか身体を突きさすよりも深く心に傷を与えることになり得るのです。
このように難しいツールである言葉を介して行われるコミュニケーションというものの難易度がとても高いものであると私は捉えていて、そもそも他者を理解することや、通じ合うことは無理なのではないかとすら考えています。
奇跡のような「通じ合えた」瞬間
それでも、ごく稀に「通じ合えた」と感じられる奇跡のような瞬間があります。
私が投げた言葉がどのように受け取られ、何を喚起させたのかを知る事が出来たとき、私はその人が持つ価値観や背景の断片を通してその人自身に触れられた気がして「通じ合えた」という歓びを感じます。
それは私の勘違いかもしれないのですが、私にとってその勘違いは「幸福な勘違い」です。
勘違いなので「解った」という訳ではないけど、相手を、他者を、「知るための僅かな手がかり」を得たかもしれないという感覚は、私にとって「コミュニケーションの可能性」を示してくれるものだからです。
放った言葉にリアクションがあったとき、例えそれが「同意」や「共感」でなくても、「異論」や「反論」であったとしても、私にとっては、言葉が届いた通じたと感じることの出来るとても貴重な瞬間です。
私は他者を「解り得ない存在」と認識しているのですが、たとえ解り得ないとしてもほんの少しずつでも「知っていくことが出来る」と信じています。
その為に、使う「言葉」というツールを、私は大切に扱いたいと思っています。
きっと、これからも言葉に戸惑うことはあるでしょう。
それでも私は、自分の言葉を手放すことを恐れずにいたいと思います。
たとえ完全に理解し合えなくても、少しずつ「知っていける」と信じたい。だからこそ、私は今日も言葉を選びながら、あなたに向けて文章を書いていきます。
たとえ通じ合うことが奇跡のようなものだとしても、その奇跡を信じて、私は書き続けたいのです。


