説教臭くない創作をしたい時は

暮らし
Photo by Pierre Bamin on Unsplash

生きづらい人々をエンパワメントするための創作において避けて通れないのが「説教臭さ」です。何かしらのDEI的な要素を下手に入れると、それは「ポリコレからの伝言」「プロパガンダ」ととられ、作品としての評価を落としてしまいます。実際に「視聴者は百合アニメを見に来たのであって、レズビアンからの説教を聞きに来たのではない」という感想が流れてきたのを見たことがあります。

だからといって受け取る側の態度や姿勢を責めるようでは創作者としての誠意に欠けています。当事者にはエンパワメントを、そうでない人々には純粋に楽しめる作品を仕上げるコツが必要となります。そういう難問に明るい知り合いは存在しないので、ここはChatGPTにでも聞いてみましょう。

あくまでキャラクターのひとり

例示したテーマは「発達障害の主人公が繰り広げる、説教臭さのないストーリー」です。これを作っていくにはどういった点で気を付ければいいのかをChatGPTに聞くと、まずは以下の回答が返ってきました。

キャラクターを「象徴」ではなく「個人」として描く
そのマイノリティを「啓発のための記号」として使ってしまうと、説教臭さが出やすくなります。物語上の「立場」ではなく、ひとりの「人間」として個性や矛盾や関係性といった中での動きをしっかり描いていくのが重要です。具体的には、社会の偏見に立ち向かう勇者として描くのではなく、その人なりの信念や欠点や魅力がある「ひとりの人間」として描くよう努めましょう。

「障害」ではなく「視点の違い」として扱う
例えば発達障害を「社会に適応できない不具合」として描くと悲劇性や説教臭さが増してしまいます。ここは「世界の見え方が違う人」として、独特の発想や反応がどのようにストーリーを動かすのかに焦点を当てると、受け手が自然と共感しやすくなります。

周囲との関係性の「動き」で見せる
主人公の発達障害を「説明」で見せるのではなく、他者との関係性の中で自然に表現していくようにすれば、押しつけがましさは薄らぐでしょう。例えば、台詞ではなく「行動」で見せたり、周囲を悪者にせず多面的に描いたり、最初は戸惑っていた人物が次第に良好な関係を築いていったりと、これらの展開が考えられます。

「成長」の定義をマジョリティ基準にしない
「マジョリティ社会への適応」を「成長」とするのはよくある失敗で、逆に差別的な印象を抱かせます。ここは「社会の枠に収まること」を目指さず「本人なりの納得」「周囲との共存関係の変化」にゴールを設定する、または「自分の強みや価値を再定義できるようになること」を成長として描くといいでしょう。

現実ベースのモデルがあると良い
モデルとなる当事者のエピソード(実在の人物やインタビュー)を参考にすると、キャラクターに「物語的リアリティ」が生まれ、ステレオタイプになりにくいです。

また、参考になりそうな作品として「レインマン」「Atypical」「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」が挙げられました。この中でレインマンは「説教臭さもあるが、特性を『才能』として一面的に描きすぎない点は参考になる」とされています。

ラベルも全肯定の味方も出すな

もう少し踏み込んで、「定型発達者には押しつけがましくない自然さを、発達障害者にはエンパワメントしてくれる存在として感じられるキャラクターを作りたい」と聞いてみました。質問の都合上、発達障害が前提となっていますが、他にも応用は利くと思います。

「ラベル」を先に見せない
受け手の感情移入を得るには、発達障害だからではなく「この人の感情や選択に共感できる」と思わせる必要があります。まずは、ラベルを明示せずに行動や葛藤で自然に見せ、徐々に行動の背景が「気づき」として明かされていき、最終的には特性そのものを超えた人間的な繋がりや自分なりの納得へ辿り着くようにしましょう。これならば、マジョリティも「構えずに」作品へ入れます。

「差異」よりも「距離感の調整」といて描く
発達障害をハンディキャップとして強調するのではなく、「人間同士の距離感のズレ」として描くと押しつけがましさは薄れます。例えば、空気を読まない行動だけでなく「悪気がないこと」「誤解の原因」も描いたり、完全な理解者といわずとも周囲の人間が少しずつ歩み寄る過程があったり、「うまくいかなくても、工夫すればすれ違いは減らせる」と自然に伝えたりする等です。

説明より「ズレ」「すれ違い」の演出
いちいち台詞で説明するのではなく、「ズレ」の描写を通して受け手に体感してもらいます。考えられる演出としては、同じ場面を主人公側と他者側で見せる、行動はおかしくないのに誤解される様子を客観的に描く、ユーモラスな描写を含め「共感できる違和感」を心がける等です。

「支援者」「正論マン」は出さない
ありがちなのが、正義感の強いサブキャラが「この人を守らなきゃ」と動いてしまうパターンで、これは善意であっても説教臭さが増します。主人公とあくまで対等な友人ないし相棒を登場させたり、特別扱いではなく迷惑をかける時もあれば助けになる時もある多面性を描いたり、支援ではなく「協力」「相互作用」とするよう努めたりするのが良いです。

当事者性のグラデーションを持たせる
作中に発達障害と定型発達のどちらかだけでは、どうしても二元論になりがちです。それを避けるために、受け手への橋渡しとなる「グレーゾーン」の人物を設定したり、定型発達の人物にもその人なりの生きづらさを持たせたり、「誰でもちょっとずつ凸凹している」などの前提を物語の背景に持たせたりすると良いです。

感情のベクトルを合わせよう
結局のところ、説教臭く感じられるのは「理解しろ」「受け容れろ」という圧力が感じられるためです。逆に「こいつは放っておけない」「このキャラの人生を見届けたい」と思わせれば成功です。最後に信じるべきは「受け手の感情の自発性」で、自分で気づける余地を残すのが鍵となります。

実際のキャラはいかほどか

ChatGPTによる創作論はここまでにして、近年の作品からも幾つか例示してみましょう。きっと何かの指標にはなる筈です。特にラベルの濃淡や一般からの反応はどういった感じでしょうか。

ぼくとパパ、週末の約束(映画)
「ぼくとパパ、週末の約束(原題:Wochenend Rebellen)」は2023年のドイツ映画で、週末にサッカー観戦へ出かけてドイツ中から“推しチーム”を見つけるという旅情モノです。主人公のジェイソン少年は「自閉スペクトラム」と明示されており、ラベルは濃いといえるでしょう。こだわりでパニックを起こしたり、自分の決めたルールで自縄自縛に陥ったり、天文学には専門家並に詳しかったりといった場面も多いです。一方で、ほんの少しでも成長したり融通が利いたりといった一幕もあります。ドイツ国内では100万人以上を動員する大ヒット作だったといわれており、一般受けは上々だったそうです。親子の葛藤など普遍的なテーマもあり、それが受けた部分もありそうですね。ちなみに、実在の親子の体験が基となっており、モデルとなった親子は今もドイツ国外へ足を伸ばしサッカー観戦を続けているそうです。

イキヅライブ!(メディアミックス企画)
「イキヅライブ!(副題:LOVELIVE! BLUEBIRD)」は「ラブライブ!」シリーズの新作として展開されるメディアミックスプロジェクトで、紹介動画やXアカウントなどで徐々に設定を広げている真っ最中です。露骨に生きづらさを設定されたキャラはいませんが、主人公の高橋ポルカだけは別で、「自然と身体が踊り出す」「よく遅刻し物を無くす」「半年で3回財布を無くした」「数学どころか算数が全くダメで高校受験に失敗」といったエピソードが付けられています。ほぼ確実にADHD+αの診断が出そうな彼女ですが、先述のジェイソン少年と違って診断名などの明示はされていません。ラベルの濃淡は中庸といったところです。なお、作品の舞台はネット高校なのですが、「ここしか居場所がない」という切実さもやはりポルカが頭一つ抜けている印象です。

受け手の「アレルギー」もある

説教臭くならないよう頑張ってきた作品であっても、「属性」を感じただけで「説教」と受け取られることがあります。受け手によっては、DEI的な要素を少しでも感じるとアレルギーのように過敏な反応を示される訳です。耐性というか感性というか、全ての人に受け入れられる作品というのはやはり無理でしょう。

こうも過敏なアレルギー反応を示されるようになったのは、過去に「ポリコレ棒」を担いで利権を貪り滅茶苦茶に暴れ回った先達への反動という部分もありそうです。ポジショントークに明け暮れ、自分たちが「搾取する側」に登ってやり返すことをゴールとしてきたツケです。

そもそも「啓蒙」「啓発」自体が作品の面白さを削いでいる点は否定できません。限りある自由時間を「道徳の勉強」のために消費するほど、マジョリティは思慮深い層ではないのですから。

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

関連記事

人気記事

施設検索履歴を開く

最近見た施設

閲覧履歴がありません。

TOP

しばらくお待ちください