映画の中の障害者(第16回)映画『月』
エンタメ
Photo by Geoffrey Moffett on Unsplash
2016年、相模原の障害者施設で起きた連続殺傷事件。日本中を震撼させたこの事件を題材にした映画『月』(2023)は、公開当初から激しい賛否の嵐を巻き起こしました。
筆者自身、劇場で2回鑑賞し、DVDも購入しました。初見時は「とんでもないものを見てしまった」と圧倒されましたが、時間が経つにつれ、本作には“見て見ぬふりできない”問題が多分に含まれていると考えるようになりました。
このコラムを書くために原作や資料も読み込み、何度も筆を執りましたが、あまりに思うことが多すぎて、まとまらないまま時間が経過してしまいました。時期を逸した感はありますが、事件から10年という節目を迎え、Netflix等での配信を機に、改めて作品と向き合いました。
不寛容の時代と共鳴
19人の重度障害者を殺害した施設支援員、植松聖(確定死刑囚)が放った「意思疎通のとれない人間は不幸を作るだけ」という独りよがりの思想は、社会に大きな爪痕を残しました。私も事件に触発され、障害者のジェノサイドを描いた映画を制作したり、新潟で10年近く毎月開催されている事件の勉強会に参加したりしてきました。改めて振り返ると、この事件によって人生が変わったと言えますが、私はこれを「いつの時代にも起こりうる異常な個人の問題」と捉えており、植松自身を深掘りすることにはあまり意味がないと考えています(石井裕也監督もパンフレットで同様のことを語っています)。
むしろ深刻に捉えるべきは、この事件が現代社会の「空気」と共鳴していることです。経済の停滞、排外的なヘイトデモ、そしてトランプ政権の誕生……。世界が「力こそ正義」という不寛容に傾く中で、植松が撒いた種は今、あちこちで花開いているように見えます。映画『月』は、良くも悪くもこの「不寛容な時代」と見事にシンクロしています。
加害者側から見える世界を映す
辺見庸による原作小説は、重度知的障害者「きーちゃん」の内面に寄り添おうとする物語でした。「心がない」と決めつけられた存在の中に、想像力によって「心」を見出そうとする切実な試みです。
しかし、映画版はあえてその視点を捨てました。カメラが捉えるのは、あくまで健常者側からの景色です。その結果、観客は必然的に加害者側の視線に引きずり込まれていくことになります。
本作で特に物議を醸したのは、その描写の凄惨さです。ミミズや虫のカットを障害者と重ねたり、汚物まみれの高齢利用者や施設をホラー的な演出で描いたり、「汚い」「臭い」といった直接的な台詞が並びます。監督は「すべて施設で実際にあったことだ」と語りますが、これらは単なる現実描写ではなく、意図的な「非人間化」です。
これは、社会に確かに存在する差別意識をあえて露出させ、突きつけていると言えるでしょう。震災、原発、低賃金労働、そして重度障害者……。すべてを社会の暗部とつなげ、「厄介事」として一部の人間に押し付けている私たちは、果たして植松を否定できるのか? という倫理的な問いです。確かに社会は差別と欺瞞に溢れており、誰もが“見て見ぬふり”をしなければ生きていけません。私たちの日常的な「小さな悪」が、施設の環境を悪化させ、植松のような人間を生み出したという論理も一理あります。
しかし、これは非常に危うい手法です。「小さな悪を積み重ねているお前たちも、19人を殺した犯人と同罪だ」という論法は、カルト宗教の勧誘によく似ています。観客に嫌悪と恐怖を植え付け、思考停止に追い込んでから「ほら、お前も加害者だ」と迫る。これは純粋な「問い」ではなく、差別を再生産して利用するマッチポンプではないでしょうか。
作品は「あなたは植松を否定できますか?」と迫ります。答えではなく問いを与えるのがアートのあるべき姿だという点には同意します。しかし本作は、巧みな印象操作によって「犯行は良くないけど、犯人の気持ちはわかるよね」という答えへ誘導する作りになっています。
障害者の実在の希薄さ
フィクション(=アート)は、現実をただ写すのではなく、新しい想像力によって現実を更新できるはずです。原作にはそれがあったはずですが、映画版はその可能性を手放し、「現実の残酷さをそのまま見せることが誠実」という態度に寄りかかっています。
もちろん終盤には、宮沢りえとオダギリジョーが演じる夫婦が、障害のある子でも産もうと決意する(ように見える)倫理的な提示もあります。しかし、作品全体を通じて強く印象に残るのは、障害者や社会的弱者への容赦のない敵意です(夫婦ら「くすぶる表現者」たちの描き方にも悪意を感じます)。
そして、本作に決定的に欠けているのは、障害者の「生活」です。どれほど重度の障害があっても、そこには光の温かさを感じ、食べ物の好みがあり、様々な形で喜怒哀楽を表現する「一人の人間」が実在するはずです。過去に紹介したドキュメンタリー『私の季節』などには、その確かな手触りがありました。
劇中には実際の施設利用者も登場しますが、植松の圧倒的なキャラクター性に比べれば、登場時間も短く、存在が希薄です。監督は長期にわたり施設を取材したとのことですが、結局のところ「人間としての実在」を掴みきれなかったのではないでしょうか。映像は加害者の差別感情をなぞった、浅く冷ややかなものに留まっています。
重度障害者の実在を描かなかったことは、「植松に共感してしまった」という監督自身の誠実さの表れとも言えるかもしれません。実際、介護や育児の過酷さの中で、相手をひとりの人間として見る余裕を失うのは誰にでも起こりうる切実な問題です。安易に人間性や救いを見出すことこそ、実状を知らない者の傲慢さである、という考え方もあるでしょう。
それでも、アートは(宗教がそうであるように)過酷な現実に意味を与え、生きる力を見出せるものであるはずです。その可能性を放棄し、結果的に加害者に寄り添った作りになっている点に、私は一番の問題を感じます。
“見て見ぬふりできない”作品作りの“きれいごとでなさ”
本作には当初から、「問題作」として成立させる意図があったように感じられます。膨大なコンテンツが溢れる現代、実写映画の作り手はいかに見てもらうか四苦八苦しています。そこで物議を醸す手法を取るのは手っ取り早い手段です。しかし、本来「問題作」とは結果としてそう呼ばれるものであり、初めから狙って設定するものではありません。映像制作の端に関わる人間としても、この作品の裏にある“きれいごとではない”意図を“見て見ぬふり”することはできません。(さらに言えば、濱口竜介監督をはじめとする新しい才能の台頭に対し、中堅監督としての焦りも感じます。彼らが決して選ばないであろう露悪的な表現を見どころにしてしまったというのは、私の邪推でしょうか?)
監督も俳優陣も、重いテーマに向き合った果敢な表現者として評価され、実際に本作は数々の映画祭で受賞しました。この成功事例によって、今後もこうした前のめりな手法の作品が増えていくでしょう。私はそのことに苛立ち、危惧しています。
もちろん、表現の自由はかけがえのないものですし、昨今の表現規制に対する反動が世界中で起きていることも理解しています。しかし、その「攻め」の姿勢が、単に社会的弱者を「責め」、エンターテインメントとして消費しているだけだとしたら、それは表現者としての誠実さを欠いています。何度も鑑賞するうちに、題材の重さに反して、表現の軽さと浅さが目につくようになりました。
事件を風化させないという価値はあるのでしょう。それでも、作品にまつわる情報や制作者のもっともらしい意図を脇に置き、映っているものと向き合うと、作り手の下心が際立ちます。どんなに優れた映像技術や演技で飾られていても、その奥にある幼さを見抜き、「いい年をしてみっともない」と言い切れる感性を、持ち続けたいと願う機会になりました。
■参考情報
• 映画『月』公式ホームページ
https://www.tsuki-cinema.com
• ポッドキャスト『ウチらがエンタメ語って光になるまで』
作品批評として非常に鋭く、お勧めです。
https://open.spotify.com/episode/3XxQXWNwZxnPqfpsF7wbED?si=TncJO7oxQ0WZLPTI0jLcbQ&t=1&pi=-tNZ1dBmQjiTT
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