発達凸凹という呼び方は適切なのか
発達障害発達障害を持つ児童には「発達凸凹(でこぼこ)」という別の呼び方があります。なんでも感覚や得手不得手が極端で、敏感と鈍感ないしは得意と苦手の激しいギャップがまさに凸凹しているからだそうです。「障害」という単語を敢えて避けたい人にはよく好まれる言葉でしょう。
この呼び方、個人的にはあまり適切と思えません。「障害」と呼ばない言葉を作った人には申し訳ないのですが、「障害」を避けることと「凸凹」が現実に即していないことから不適切と考えています。
社会的に称賛される才能がない
発達凸凹という呼び方には「殊更苦手な事はあるが、その分得意なことは一流だ!」というニュアンスも感じさせます。中には「発達障害≒ギフテッド」と捉えて多岐な勉強や習い事をやらせる親もいるそうですが、そういう明らかな才能の種を秘めている発達障害持ちは少ないのが現実です。
要するに、生まれ持った発達障害に対する「補償」がないのです。苦手の分だけ得意なことがとことん突出しているならば、それを元手にライフスタイルの設計が出来るでしょう。しかし現実の発達障害持ちは苦手や不出来だけ押し付けられた状態が大半で、何か尖った長所があったとしてもそれが社会的に認められる才能であるとは限りません。
一箇所の抜きん出た才能という「補償」すら与えられず、定型発達と合わせるための努力だけを一方的に強いられることの何処が「凸凹」なのでしょうか。寧ろ苦手なことに対し得意なことでバランスが取れている方が珍しいことを、接する人だけでなく本人すらも認識せねばなりません。
障害は社会から課せられる
「障害」という単語を避けようとして「凸凹」と表現したのは確かに偉いですが、それに満足して休むようでは意味がありません。表層に過ぎない部分だけで必死になるのは、そもそも「障害」の意味を「本人ひとりが持っている」だけ捉えているのではないでしょうか。
確かに障害を抱えると出来なくなったり難しくなったりすることは多いです。しかし、それは本人のせいではなく社会のバリアフリーが未だ整っていないからだと解釈できませんか。本人が抱えているものだけでなく、社会や周囲から不必要に課せられている「障害」もあるように思います。これは「障害の社会モデル」と呼ばれており、「個人モデル(障害を本人の努力不足が原因とする考え)」とは対を成しています。
極論、発達障害があろうとも苦手な部分をほとんど使わずに生活が成り立てば「障害」ではなくなります。手帳を取らずに生きていくことも理論上では可能(実際に診断がグレーで手帳が取れないままの人も居る)ですが、個人ではどうしようもない壁に衝突するのが現実でしょう。
「感動ポルノ」の造語がバリバラで取り上げられたステラ・ヤングさんも、「私たちが住む周辺社会からもたらされる障害は己の持つ障害よりも深刻である。」と社会から課せられる障害について言及していました。本人の特徴だけに言及した「凸凹」に言い換えることで、社会モデルを見逃しはしないでしょうか。
当たり障りのない言葉を選んだとしても、自己責任論に近い個人モデルが蔓延するようでは上辺を取り繕って満足しているに過ぎません。
やさしい言葉選びは否定しない
とはいえ、やさしい言葉選びへの努力を否定する道理はありません。確かに「言葉狩り」と言われる程まで粛正しようとするのは現実逃避でしかないですが、英語圏の「m*ther f**ker」に比肩する生まれながらの侮蔑語は公的空間での自粛か単語の改造が求められるでしょう。
ただ「臭いものに蓋」をするのではなく、その単語の意味やルーツや「なぜタブーと指定されているか」を同時に理解させるのが理想だと思います。それらをすべて教えたうえで単語をどう扱うかは、聞き手の良心に委ねるくらいで丁度いいのです。
昔流し読みしたツイートにこのような文言がありました。「ある外国語講師に『現地でタブーとされている言葉をわざわざ教えるのは何故ですか?』と聞くと、こう返ってきた。『その言葉を知っておかないと、旅先で何の気なしに口走ってトラブルになるかもしれないからだ』」
発達障害