ADHDとLGBT、2つの社会少数派に所属して生きる人生
発達障害出典:Photo by Shubham Shrivastava on Unsplash
発達障害のADHDとして。そして最近、Boys Loveなどメディアにも少しずつ紹介され始めてきた、社会的少数派性的思考者のLGBTの男性の同性愛者であるGay(ゲイ)として生きることを決めた体験談です。
ADHDと診断されて
ADHDと医者から診断されたのは留学から帰国し、再就職してから半年ぐらいの頃です。最初はなかなか仕事の内容が理解できず、特に数字が書かれた内容を理解するのが困難で、うつ気味になり心療内科を受診しました。初めに受診したクリニックでは発達障害の可能性だけ判断され、専門医が在籍しているクリニックを紹介してもらいました。その後、検査を受け、診断がでるまで約半年程度かかりました。診断を受けた最初の印象は「何それ?でも聞いたことある」程度で、ショックもなく、そこから淡々と医者の説明を聞いていました。でもその当時は、自分のことを説明されてるのに、何となく他人事のように聞いていました。
ADHDの説明を受け、何となく理解した気分で帰宅して、再度自分なりにインターネットで検索して分かりました。その感想は「また少数派要素が増えた」ただそれだけです。そもそも自分がLGBTのG(男性の同性愛者)だと自覚したのは、初恋の相手が同じクラスの男子生徒だったからです。でも無自覚ながら生まれつきの同性愛者だと思います。留学時は「LGBT」として、そして「外国人」として社会的少数派に属しており、帰国すると「外国人」という属していたグループが外れ、同時に「ADHD」のグループに所属した感じでした。なので診断後、大きなショックはありませんでした。
国外脱出
診断後は、ただ日常生活を過ごしてるだけなのに、仕事や人間関係、特に身近な両親との関係が悪化して、うつが日に日に酷くなりました。医師に両親へADHDのことを説明してもらいましたが、両親には理解が困難だったようです。円滑にADHDの人とのコミュニケーションのための配慮を提案しても、両親は一切受け入れることはなく、せっかくの三者面談も無駄になってしまいました。結局、私のうつ病はさらに悪化しました。最も身近で、そして同じ言語を話すのになぜ意思疎通ができないのか、今思い出しても本当につらい時期でした。最終的に医師の判断により、休職、そして両親から離れるために、1週間程度日本を離れることになりました。その時、私の状態を知る留学時代の友人家族が快くホームステイ受け入れをしてくれたこともあり、結果的には、酷い不眠症は改善して、積極的に外出や、人と話すこともできるようになるまでに回復しました。
この時ほど、日本で少数派に属することが精神的に負担だとは思ったことはありません。また母国である日本の社会が、外国である留学先より自分を受け入れられていないと感じたのが最もショックでした。日本を離れ、なぜ海外ではそれほど問題がなかったのに、帰国後に問題が浮き彫りになったか自分なりに考えるようになりました。
少数派に所属という選択
私が過ごしていた海外の国々は、日本に比べると時間や仕事の作業など曖昧な部分が多かったのですが、コミュニケーションは日本人より明確に言葉で伝える必要がありました。そのため、私のADHDの特性が留学先の国ではそれほど問題にならなく生活にも支障がなかったのが、日本だと問題点ばかりが浮き彫りになってしまいました。
同じADHDの特性でも国が違えば社会への適用度が大きく変化する。これが私なりの結論です。
現在、私は就労移行支援を受けながら再就職を目指しています。私は母国である日本で少数派として生きていくことを決めました。しかし、発達障害などで日本の生活で息苦しさを感じてる人は海外で自分らしく生きる人生も選択肢の一つと考えるのも悪くないと思います。当然、海外で生きるのは大変なことです。しかし日本で押し殺してた部分を開放できるのが、何より負担がなく、自分らしく生きることができます。日本人で日本で生活するという多数派から、海外で生活する日本人という少数派に所属するだけで、新たな人生を手に入れることができるかもしれません。
注意欠陥多動性障害(ADHD)