精神医療の進化とその副作用~サポート体制の充実と心療内科の姥捨て山化
発達障害この数十年で様々な精神疾患や発達障害が周知され、精神医療のレベルも飛躍的に向上していきました。また、診断名が出ることで安心感を貰ったり生きづらさが軽減されたりする効果も期待されています。今時「うつは甘え!」などと叫べば時代遅れとして白眼視されるようにもなりました。
精神疾患や発達障害が細分化され一般に周知されていくこと自体は歓迎されるべきことです。しかし、それにはメリットとデメリットがコインの表裏となって存在しているという意見があります。精神科医でブロガーの「シロクマ」氏が「発達障害のことを誰も知らなかった社会には、もう戻れない」という題で投稿したものです。
精神医療の進化
シロクマ氏にとって大先輩にあたる年配の医師が駆け出しだった頃は、統合失調症・躁うつ病・神経症・てんかんの4種類で診断が間に合う程の時代でした。更に大昔ともなると、「狂気」ひとつで片付けられていたそうです。
20世紀が終わりへ近づくにつれ、新たなタイプの「患者」「症例」そして「治療ニーズ」が多く見つかるようになり、精神医学もそれに応え疾患への概念や認識をアップデートしていきます。これには対人業務の多い第三次産業(サービス業)が台頭し、コミュニケーション能力が重視されていった流れが関係あるそうです。
世の中の変化によって生きづらさを増した人が精神医療の門を叩き、適切な治療で自身と向き合えるようになったこと自体は、精神医療の目的を十分果たせています。また、統合失調症やうつ病に関しても重症化する前に治療を受けられるようになり、早期の発見や治療へと繋がりました。
精神医療は目覚ましい進化を遂げたわけですが、シロクマ氏はこの進化を喜ばしいこととしながらも「精神医療の進歩が、それと無関係な人々にとっても良いことづくめだったのか?」と疑問を投げかけます。
タダで社会に受け入れられるのが難しくなった
シロクマ氏は精神科医として精神医学の進歩を激賞する一方、進化に「副作用」があることを示唆しています。それは「そのままで社会の包摂されるのが難しくなった」ということです。また、精神医学が勝手に進化したわけではなく、時代ごとに変わりゆく社会の情勢やニーズに応じて変容していった点も抑えるべきポイントです。
シロクマ氏が例に挙げたのは、昭和のヒットソングです。80年代以前の昭和歌謡には時々、現代では何らかの診断名がつくような人物像が登場していましたが、当時の世間ではそうした人物像もさして疑問視されませんでした。精神医療にかかることなく社会に身を置くことが出来たわけです。
裏を返せば、「精神科へ行け」と言われる基準が比較的些細になってきたのです。精神医療が進化した代償に、「医療は進んだのだから受けてこい。それまで社会に入ることは許さん!」と事実上の排斥もまた通りやすくなりました。
こうした価値観の変化は、21世紀から急成長した発達障害のカテゴリにも適応されています。求められるコミュニケーションの水準が上がっていったことで、定型発達とされる基準も厳しくなっていきました。「大人の発達障害」が増えていったのも、ここ数十年にかけて「コミュ力の合格点」が厳格化した煽りでしょう。
個人個人にとっては診断によって肩の荷が降り救われるメリットもありますが、診断抜きで社会に受け入れられるのが難しくなったデメリットもあります。個々の事例と社会の風潮からみて、どこまでが良くてどこからが悪いか一概には言えません。要するに「進化は良いことばかりでない」という話です。
医療や福祉が「姥捨て山」に
2010年代が進むにつれて発達障害の認知度も飛躍的に向上し、良し悪しは別にして素人が障害名を簡単に持ち出せるまでになりました。また、「発達障害に対して合理的配慮などのサポートをしよう」という意識も高まっています。しかし、名前しか知らない障害を持ち出す素人は、いざ合理的配慮を求められると「それはこちらの領分ではない!」と華麗に逃避します。
診療に訪れた人々を通じてシロクマ氏が感じているのは、「発達障害のサポートは医療や福祉や家庭の役目と考え、定型と遜色ないレベルになって初めて(給料の安い障害者枠で)受け容れてやるという態度の企業が多い」ということです。ものによっては発達障害を暗に断る所まであるそうです。
発達障害へのサポートが叫ばれる中、素人の集合体である一般企業がやることと言えば、専門性の高い医療や福祉分野へ放り投げることだけです。早い話が「姥捨て山」で、障害者雇用枠や特例子会社もこれに含まれます。生活が成り立つ給料が出るならそれで構いませんが現実は果たしてそうでしょうか。
心療内科や就労支援で定型並みまで鍛えないと社会進出を認められないのが実態です。医療や福祉を「姥捨て山」とし、頑なに一般企業から遠ざけるのはどうしてでしょうか。シロクマ氏によれば、世の中で「生産性・効率性・利潤・リスクヘッジ」が隅々まで求められているからだそうです。
生産性のために
より安全な経済活動のため人々が求めるのは、生産性を向上させリスクを回避することだそうです。これが個人レベルにまで浸透していると逆らうのが難しく、「無駄を省く」「不安要素を除く」ことが最大の美徳となってきます。
現代の社会人には20世紀に比べると数段高い生産性とコミュニケーション能力が求められており、それを満たさない者の参画は許されません。「姥捨て山」となっている医療や福祉の現場もまた、生産性やコミュ力を鍛え直す場として利用されている節があります。いつの間にか定型社会の補修教室として医療や福祉が利用される構造となってしまったわけです。(鍛え直すなら「姥捨て山」ではないと思われるでしょうが、納得いくレベルにならなければ結局は定型社会から捨てられるだけなので一緒です。)
「発達障害はサポートされるべき」には、医療・福祉が求めていた「本人の生きやすさに寄与する」ことと、定型社会が求める「生産性とコミュ力を合格点まで鍛え直す」という2つの意味が混在しています。発達障害を持つ人と関われば必ず両者の板挟みに悩むこととなるでしょう。一応、思考を放棄するという楽な逃げ道はありますが、その先は「発達障害など嘘だ、甘えだ!」と喚いている未来しかありません。
発達障害の概念が広まったことで、良いことも悪いこともありました。中でもシロクマ氏が懸念されているのは、「生産性とコミュ力」を至上とする定型社会に体よく利用されたままの現状です。定型社会に合わなければ隔離されますし、望むように鍛え直しても薄給の二軍止まりで済まされるようでは、「生きやすさへの寄与」が果たされたとはいえないでしょう。
もし定型社会が求めるほどの「生産性とコミュ力」がつかなければ、どうするつもりでしょうか。生産性に劣っているならば、どうするつもりでしょうか。生産性の確保とリスクヘッジのため「姥捨て山」へ積極的に放り込むとでもいうのでしょうか。
参考サイト
発達障害のことを誰も知らなかった社会には、もう戻れない
https://blogos.com
続・発達障害のことを誰も知らなかった社会には、もう戻れない
https://blogos.com
発達障害