障害と失敗~やまない雨はない

発達障害

出典:Photo by Mike Kotsch on Unsplash

私はADHDとパニック障害、軽度のASDを持つ、いわゆる障害者です。

私の障害が診断されたのは最近ですが、障害特性は生まれ持ったものであり、様々な失敗をしてきました。

今回のコラムではそんな私の体験について、具体的な出来事や失敗、立ち直り方を書いていきます。

似たような状況や経験を体験した方の参考になれば幸いです。

幼少期~小学校まで

幼少期はいたって普通の子供……ではありませんでした。

幼稚園児のころから落ち着きがなく、良い意味でいうと活発、悪くいうとそそっかしかったと聞いています。

ただし、いわゆる「頭がいい」子供で勉強はできたため、周りの評価としては「ちょっと変わった普通の子供」だったように思います。

小学校に入ったあとも、そそっかしくて落ち着きのない状態は続きました。

このころから人の話を聞き続けるのが苦手で、他人の話の最中に、虚空を見つめて別の考えごとをしてしまうため、周りの人から「夢の世界に入ることがある」といわれていた記憶があります。

さらに、このころは例えば「この子はゲームをいっぱい持っているから、友達になって貸してもらおう」など、人を損得で見てしまうことがよくありました。

また、ゲームをし始めれば止められるまで続けるなど、過集中の傾向も見られたように思います。

このような要素がありながら、勉強"だけ"はできるという「頭のよさ」で、学年ではトップの成績を維持し続け、1年の勉強で都道府県内で10番以内の進学校へ通うことになります。

今になって思うと、このぐらいの時期にADHDと診断されていた方が、後の人生が楽だっただろうなとは思います。

中学校1年目

中学校は「自由な校風」がモットーの学校で、勉強を強要されることはありませんでした。 私はADHDのため、努力はできないが地頭がいい、いわゆる「天才型」でした。しかしながら、進学校には「努力」をする「天才」が多くいます。

開始1回目のテストこそ260人中10番近くだったものの、普段から勉強するということをしなかった私は一気に学力が下がります。

2回目のテストでは100番台、3回目のテストは180番程度、それ以降は240~250番目をさまよっていました。

またスケジュールなどを立てることが大の苦手で、宿題は20%ほどしかせず、長期休みの宿題に関しては中高通して1度しか提出した記憶がありません。

部活も出席が自由だったため、気づけば行かなくなり、即帰宅してはゲーム、とりあえず学校に出るだけ出て、帰ったらゲーム、という日々を繰り返していました。

ちなみに忘れ物や不注意も多く、しゃべるのも大好きで、お金はあるだけ使ってしまうなどなど、ADHDの特性をこれでもかと発揮していました。

しかしながら「頭がいい」という1点で「ADHDではない」と父母からは思われており(息子が障害を持っていると信じたくなかったのもあるとは思いますが)病院などにいくことはありませんでした。

ちなみに過去の私に今の私がアドバイスできるとすれば「病院で診断してもらって、しっかり勉強をしろ」といいたいです。

パニック障害の発症

成績は悪かったもののゲームが得意だったことと、親譲りの踏み込んだコミュニケーションのおかげで友達は多く、正直悲観してはいませんでした。

そんなこんなで、生産性はないものの楽しい日々を過ごして1年が経とうとした、中学2年5月のことです。

ある日、通学のために電車に乗っていると急に目の前がぐらつき、強烈な吐き気を感じました。突然のことに動揺し、一度電車を降りて10分ほど休憩を取りました。

その症状は休憩するとおさまったため、再度電車に乗るものの、同じように体調を崩してしまいました。

以降は、電車に乗るとほぼ確実に体調を崩してしまい、大幅に遅刻して学校に通うことになります。仮に学校についたとしても授業でも体調を崩すようになってしまいました。

後に判明するのですが、これは「パニック障害」という病気で、電車やバス、飛行機など特定の場所を不安な場所と脳が勘違いし、不安から遠ざかるため体調を崩してしまうという精神疾患の1つです。

しかしながら、当時は病名すら知られておらず、母に症状を伝えても「タイミング悪く体調を崩しただけ」と信じてもらえませんでした。

ここから半年ほどは解決方法がわからず、登校はするものの、なにもできない地獄のような日々をすごすことになりました。

余談ですが、ADHDの人は周りの状況を敏感に感じ取ってしまうため、パニック障害になりやすいそうです。

そういった意味でも、早めにADHDについて受診しておくべきだったと思います。

パニック障害の転機

転機は中学2年の冬の何気ない1日に起こりました。

「パニック障害」を発症してから、あまり授業にも出られず、ほとんど保健室で過ごしていた私はなんとなく、1冊の本を手にしました。

タイトルは覚えていませんが、その本は精神疾患のことについてマンガで解説しているものでした。

本の中には自分とほぼ同じ境遇の人物がかかれており、そこで初めて「パニック障害」という病名を知ることになります。

あわせて、パニック障害の詳細についても説明があり「この病気で死ぬことはない」という一文も書かれていました。

パニック障害の解決に大切なもの

その日から「病気である以上治療法がある」ということを安心材料に、電車や授業に積極的に参加しました。

「最悪、病名を伝えて真摯に母と相談しよう」と思い割り切って動けるようになり、症状は快方に向かっていきました。

とはいえ、すぐに治るわけもなく、ほぼ万全の状態まで回復するのには2~3年ほどかかりました。

そんな中、何度もくじけそうになった私を支えてくれた大切なものが2つあります。

1つ目は「信じてくれる友人」です。

私はパニック障害がある程度落ち着いてきた中でも、各駅停車にしか乗れないうえ、途中で降りてしまうこともあるため、迷惑をかけないようあまり友人とは帰らないようにしていました。

そんなある日、友人とたまたま一緒に帰ることになり、迷惑をかけないよう、初めて同級生に病気のことを打ち明けました。

すると同級生は「もっと早くいってくれればよかったのに。じゃあ一緒に各駅停車で帰ろう」といって、急行電車の方が早く帰れるのに、各駅停車で一緒に帰ってくれました。

以降もその友達は時々、各駅停車で一緒に帰ってくれるようになりました。それで安心した私は以降、その他の友人にも病気のことを少しずつ話せるようになり、徐々に居場所を確保できるようになりました。

もちろん、中にはあまり信じてくれない友人もいました。しかし、たとえ9人に信じてもらえなかったとしても1人に信じてもらえるなら、自分の辛い状況は伝えた方がいいと今でも思っています。

人は共感をえられなければ、生きていけない生き物です。特に辛い状況を話せる仲間を作るべきだと私は思います。

もちろん、辛いことは話すだけではなく、聞いてあげるのも忘れずに。

2つ目は「前に踏みだそうという勇気」です。

本を読んで病名はわかったものの、色々調べたところ治すには半年から一年かかるとの記述がありました。

当時の私は中学2年の若干14才で、あまりにも長い時間に思えたのです。

そのため、もう学校に行かないでおこうかなと思い、停滞してしまった時もありました。

その時私を動かしたのは「やまない雨はない」という言葉でした。

これはとあるゲームで、自分よりもっと苦しい状況に置かれた主人公にその親友が送った言葉です。

まあ、現実の話じゃないといわれればそれまでですが、14才だった当時の私にはとても勇気を与える言葉でした。

私の場合はこの言葉がきっかけでしたが、世の中の色々な問題は前に踏みださなければほとんどが解決しません。

もし今なにか問題を抱える人がいたら、一気に前に進む必要はないので、少しずつ前に踏みだしていくべきだと私は思います。

次回のコラム

……と、今回のコラムでは中学までの私について書いてきました。

パニック障害は解決しました……が、人生は1つしか問題が無いような甘いものではありません。

次回は「障害と失敗~自分は主人公じゃない」というタイトルで大学までのことを書いていきます。

よければ、そちらもあわせて読んでいただければ幸いです。

▶次の記事:障害と失敗~自分は主人公じゃない

中学生時代にパニック障害を発症。一度は回復したものの、社会人になって再度発症し、その際にかかった精神科にて、検査を勧められ、発達障害と診断されました。以降悪戦苦闘しながらも、社会に適応しようと奮闘中です。

趣味はゲーム全般で、最近はカードゲームに力を入れています。

注意欠陥多動性障害(ADHD)

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