「ポリコレ疲れ」はポリコレそのものへの疲れではない、都合よく扱う人間への疲れだ
暮らしPhoto by Adrian Swancar on Unsplash
「ポリコレ疲れ」とは文字通り、ポリコレに疲れてしまうことです。これには2つの意味があります。ひとつは、ポリコレを都合よく扱う界隈や言説に対していい加減嫌気が差した側の意見。もうひとつは、情けない惰弱が弱音を吐いているだけだと嘲る側の意見です。後者は自身がポリコレを遵守している存在だと決して疑わないのも特徴ですね。
これが最初に言われだしたのは2016年、アメリカでトランプ政権が樹立されたことがきっかけとされています。差別表現を避けて政治的に正しい表現を奨励する風潮に閉塞感を覚えた民衆が、破天荒で自由奔放な物言いをするドナルド・トランプ氏に迎合し彼を大統領に押し上げた、というのが当時の「ポリコレ疲れ」です。そして、これに対する返答は「ポリコレは疲れるものではない。差別表現をせず他人を尊重するのは当たり前。自然に出来ないのは情けない」というものでした。しかし、当時と現在では「ポリコレ疲れ」の意味は変わっているのではないでしょうか。
確かに、ポリコレの隆盛と浸透によって差別的な表現や扱いが牽制されてきた側面はあります。容姿いじりが地上波から消え失せたのは一種の功績と言ってもいいでしょう。その一方で、スーパーマンやリトルマーメイドやバイオハザードなど昔から親しまれてきた作品まで巻き込んで物議を醸すことも増えてきました。全ての人と言いつつ、実際はごく数種の限られた属性に偏っているため、「ポリコレカードバトル」と揶揄されるのも無理からぬことです。
ポリコレ言説が抱える問題点は4つあります。ひとつは、今のポリコレが「失礼クリエイター」に似てきたことです。失礼クリエイターとは、存在しないマナーを拡散するマナー講師もどきのことで、過去には「江戸しぐさ」「お祝いのお返しに緑茶は失礼」「目上に『了解しました』は失礼」といったデマをばら撒いてきました。ポリコレもまた「ルッキズム」「性的消費」などの言葉を振りかざしてあちこちに口出ししています。また、「マイノリティ配慮を啓蒙する講師になって稼げる」という利権が絡んでいるのではないかとも言われています。
もうひとつは、「正しさ」が永劫不変であるかのように信じていることです。時代によって「正しさ」は変わっていきます。昔は通じていたものが今では糾弾されるようになったのと同様に、今は通じているものが将来は不適切なものとして扱われる可能性があるのですが、そこに想像が行き届いていますでしょうか。昭和最悪の原発事故で有名なチェルノブイリが、ロシアのウクライナ侵攻を機にウクライナ語の「チョルノービリ」へ呼ぶよう急転換されたことは記憶に新しいでしょう。約35年間も通じていた「正しさ」が急変した瞬間を、我々は目撃したはずです。
みっつ目は、単純に「ポリコレ棒」と呼ばれる道具と成り果てたことです。ポリコレ的な相手の瑕疵を一方的に叩いていれば、気に入らない相手を攻撃しながら正義中毒も満たせる訳です。当然ながらドラッグ的な依存性も強く、遂には「キャンセルされるような奴らからキャンセルカルチャーを取り戻す!」と脳内で仮想敵を作ってまで息巻く人も現れました。
そして最大の問題点が、ポリコレの効力がその対象に含まれる限られた属性にしか発揮されないことです。ポリコレ言説は全ての人の尊厳を謳いながら、対象外に対して非常に冷徹なのが現実です。弄り・叩き・嘲りでしか自己表現の出来ない人々にとって、ポリコレによる分断は疲れを呼ぶどころか、攻撃していい対象さえ教えてもらったのではないでしょうか。ポリコレの対象外であれば従来以上に、差別的な言動や扱いが許されています。
具体的には、知的障害・境界知能・発達障害辺りが主な対象“外”です。故に就労移行支援の感想から「チー牛」が、野蛮なマッチョイズムの保全から「こどおじ」「弱者男性」が、差別表現にあたらない正しい言葉であるかの如く定着しました。繰り返しますが、知的と発達はポリコレの対象に入っていません。入っていればネット上で何かあるたびに真偽不明の被害報告で盛り上がるようなことは起こらない筈です。
「元発言の『170cm未満』を175cmに引き上げる」「公共の場で『キモいおじさん』について下品に盛り上がる」「オタクの飲酒投稿が増えたとみるや『キモオタの特徴』から酒に関する文言を削除」と、悪口のためなら捏造や屁理屈を恥とも思わない者らにとって、ポリコレは疲れるようなものではありません。寧ろ、変わらず攻撃できる対象を示しエンパワメントしてくれる存在です。
「現在の正しさ」に甘えて無用な口出しをし、叩き棒として相手を選んで振り回す、世の中そんな人々で溢れていては疲れるのも当然です。ポリコレ自体ではなく、ポリコレを悪用したり恣意的に解釈したり逆に差別や攻撃へ活用したりする人々への辟易や反感が。「ポリコレ疲れ」の正体ではないかと考えています。
なお、トランプ政権発足時におけるポリコレ疲れを書いた記事の人はカナダ在住の日本人で、「カナダではヘイトスピーチをはじめあらゆる差別行為が禁止されている」とまで言い切っていました。記事の3年後、当のカナダでは国連障害者権利委員会から、安楽死制度を使って障害者を間引きしているのではないかと指摘を受けたそうなのですが、それはまた別の話です。
参考サイト
ポリティカルコレクトネスは「疲れる」ものか?
https://izuminiki.mystrikingly.com