「キツネと鶴」のお話から見えること~それは「勧善懲悪」なのか?

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出典:Photo by Aaron Burden on Unsplash

イソップ童話に「キツネと鶴のご馳走」というお話があります。 キツネは鶴を自分の家に誘い、平たい皿にスープを入れて出します。鶴にとってはその細長いくちばしが邪魔で、平たい皿ではスープは飲めません。キツネはそんな鶴のようすを眺めて、鶴の分のスープまで飲んでしまいます。何日かして、今度は鶴がキツネを家に招待しました。鶴は口の細い壺に肉を入れてキツネに出します。その壺にキツネの口は入らないので、キツネは肉を食べることができませんでした。

この話の教訓は……

このお話を聞いて、どんな感想を持ちましたか?どのような教訓をえましたか?

「誰にでもできること、できないことがある」「他人に意地悪をすると、そのうち自身に返ってくる」「一見弱者に見える鶴でも、頭を使えばキツネに仕返しができる」……さまざまな意見があると思います。

私はイソップ童話の絵本(出版社や発行年問わず、いろいろな本)を手に取るたび、この「キツネと鶴」のお話を確認して、どのように話がまとめられているかを確かめます。イソップ自身は「食事の場で馬鹿げた話をすると、食事がまずくなる」と言いたかったそうです。食事というのはそもそも生きものの欲求を満たす場であります。不快な思いはしたくありません。キツネにしても、鶴にしても、あえて相手がそれを食べられないように考えて提供した、という「嫌がらせ」をしたことに変わりはありません。「嫌がらせをしたら仕返しをされた」……まさに、「負の連鎖」です。そう考えるとなかなかに恐ろしい話です

「仕返し」を推進する

近頃、テレビやYouTubeの動画やネットなどで、この「キツネと鶴」のように「嫌な奴が仕返しをされたり、仕打ちを受けたりして悲惨な目に遭う」という内容の物語が(実体験であれ架空の話であれ)「いい話だ」と持て囃されたり、娯楽として扱われたりする風潮があります。「人に意地悪をしたり迷惑をかけたりしてはいけない」という教訓に結び付けるならまだしも、それを娯楽として扱うことは「鶴のような仕返し」を扇動することに繋がるのではないかと、私は危惧します。その風潮を肌で感じるたび「仕返しをされたり娯楽として扱われたりするからこそ、下手に動いて無意識のうちに他人を傷つけるわけにはいかない」とびくびくします。キツネのように悪意を持って意地悪をしたわけではなくとも、それが迷惑であれば、仕返しをされるのではないかと思ってしまうのです。「明日は我が身」です。

それは「いい話」なのか

「勧善懲悪」に対して「勧悪懲悪(かんあくちょうあく)」という物語のパターンがあります。いわゆる、強盗や詐欺師や犯罪者など、悪者とされる立場の者が、別の悪の軍団や組織と対峙し、懲らしめるというタイプの物語です。「勧悪懲悪もの」のストーリーも、時代劇や映画や漫画などにおいて昔から人気があります。

この「嫌な奴が悲惨な目に遭う」の話も「勧悪懲悪」になる可能性があります。もちろん「勧悪懲悪」タイプの話は主人公側が悪者に属しているというより、その目的が人助けであったり人情味のあるものだったりするものです。「勧善懲悪」のストーリーであっても、主人公に人情がなく、容赦なく悪を殲滅するようなものもあります。ここで考えたいことは「勧善懲悪と勧悪懲悪、どちらがよいか」という話ではなく「悪者を懲らしめることが『負の連鎖』に繋がらないか」「そもそもなぜ、最初の悪意が芽生えたのか」ということです。

「仕返しをされるから意地悪をしてはいけない」「場の空気が悪くなるから迷惑をかけてはいけない」……どちらに重点を置くかは、非常に大切であると私は考えます。しかし近年それが「傍から見ていて爽快であるか」に重点を置かれつつあるような気がします。われわれの生活はフィクションではありません。現実とたとえ話の境界線は、はっきりさせておきたいものです。

参考文献


ウィキペディア・イソップ童話集/きつねとつる


ウィキペディア・勧善懲悪

ピコ

ピコ

高校1年生でアスペルガー症候群の診断を受け、高校卒業後フリーターを経験。
その後専門学校へ2年間通い、在学中にうつ状態に。
どうにかこうにか切り抜けて卒業し、社会に出たものの、働くことの厳しさを実感。
かれこれ10年。
イラスト、アート、手芸など、創作活動が好き。最近の楽しみはぬいぐるみと戯れる事。

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