「誰も傷つけない表現」が不可能ならば、風刺も不可能なのか

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Photo by Myriam Zilles on Unsplash

誰も傷つけない表現は不可能とよく言われます。意図しない受け取り方で勝手に傷ついたり怒り出したり、意識していない箇所が誰かの地雷を踏み抜いていたり、そもそも万人が納得するような発信は不可能であったりするからです。

皆が笑えるジョークが不可能であるならば、風刺で世相を斬るというのもまた不可能でしょうか。この問いは、前提からして間違っています。そもそも「風刺」とは、言うほど崇高でもなければ高尚でもない営みです。

風刺とは、goo辞書では「社会や人物の欠点・罪悪を遠回しに批判すること。また、その批判を嘲笑的に表現すること」とされています。元来が“嘲笑”という下劣な感情に根差しており、批判する意思自体も皆がすんなり受け入れるというのは傲慢に過ぎます。

少し話は逸れますが、真実に基づくからといって「正論」が無条件に聞き入れられるでしょうか。答えはNOです。客観的に正しいからこそ正論は耳に痛いものですし、聞く側は大抵甘い欺瞞の方へ流れていきます。ましてや、嫌味や人格否定などは完全に伝える側の落ち度となります。

それで風刺とは何ぞやとなるわけですが、ジョークはジョークでもブラックジョークに属すると思います。言う側と、その思想に共感できる人間だけがニタニタと楽しめる、倫理観に欠けた表現。それに風刺も該当します。

「ビゴーの風刺画」を歴史で習い、新聞でも政治家を風刺した挿絵が挟まることも、風刺が高尚などと誤解される要因でしょう。「これは風刺だ」と言い訳にも使われます。しかし実際はブラックジョークと同等の、“嘲笑”を孕んだゲスな表現に過ぎません。それが風刺というものです。

ブラックジョークは、刺しどころが悪ければ大きな反発を生み、自分が笑えない状態にさせられます。しかし「層や属性で馬鹿にするのはやめよう」とはならず、“刺してもいい場所”ばかり探してきたのが人類の歴史で、これはポリコレが席巻しても変わりませんでした。寧ろ、刺せる場所を減らしたぶんだけ禁断症状を出す人間が増えただけです。そこにSNSやZ世代特有の「共感」「映え」「キャッチーさ」を重んじる価値観が加わり、ディープウェブでもないのに表へ出せない発言が飛び交うようになりました。

ただ、「世相を斬る」などと過大評価されやすいぶん却って風刺の方が人格に影響しやすいとは思います。特定の層や属性を馬鹿にすることで褒められると、表現はどんどん先鋭化し取り返しのつかない領域まで達します。なんとも厭な成功体験ですが、政治風刺だとそれを得やすいんですよね。

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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