青葉→植松→青葉、二転三転した「ルックバック」の修正とその反応
エンタメ 暮らし「チェンソーマン」などで知られる漫画家・藤本タツキさんが「少年ジャンプ+」にて掲載した読み切り漫画「ルックバック」が大きな話題となりました。Twitterのトレンド2位まで瞬く間に浮上し、一晩で閲覧数120万を超える大ヒットです。といっても、漫画と縁遠い層にとっては「作中の表現に修正が入った」という意味が大きいのですが。
あらすじを要約しますと、共同で漫画を描いていた藤野と京本という2人の少女が、高校卒業を機に別々の進路へ進むものの、京本が通り魔によって殺されてしまい、藤野は京本が死なない時間軸を夢想するというものです。
通り魔の台詞や「京本」という名前から、京都アニメーション放火殺人事件および京都精華大学通り魔殺人事件をモデルとしたのではないかと考察もされました。その考察が、修正を伴う大騒動にまで発展してしまいます。
青葉から植松へ
「ルックバック」の修正箇所というのは、(作中の)犯人が述べた動機などです。原版はモデルの事件からして、京都アニメーション放火殺人事件の犯人である青葉真司容疑者を想起させる言い回しでした。対して修正後は津久井やまゆり園連続殺人事件の植松聖死刑囚を思わせる台詞に変更されています。
修正前
動機「美大構内に飾られている絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」
台詞「オイ!ほらア!ちげーよ!俺のだろ!?元々オレのをパクったんだろ!?」
修正後
動機「誰でもよかったと犯人が供述」
台詞「オイ!見下しっ、見下しやがって!絵描いて馬鹿じゃねえのか!?社会の役に立てねえクセしてさあ!?」
いかがでしょうか。修正前は青葉容疑者の「パクりやがって…」を、修正後は植松死刑囚の「生産性のない奴は必要ない」をモデルにしていることが分かると思います。
修正の理由としては「統合失調症を想起させる表現で、誤ったステレオタイプを煽っている」「京アニ事件の遺族や関係者に対して無遠慮だ」と問い合わせが殺到したこととされています。特に前者が槍玉に挙げられ、ちょっとした諍いを生み出していますね。
なお単行本では再修正され、通り魔の台詞が「俺のアイディアだったのに!パクってんじゃねええええ」と青葉容疑者ベースに戻っています。「漫画家など生産性が無いから死ぬべき」という植松死刑囚ベースのままでは整合性が取れないと最終的には判断されたのでしょう。
元々、物語の考察において明確な正答は(作者や公式の見解でもない限り)存在せず、観る者それぞれの解釈があってよいものです。二転三転した修正すらも考察の材料となっていったのは、純粋に作品が持つパワーでしょうか。
「配慮があれば完璧だったなあ」
「ルックバック」の原版に対し大きく異議を唱えたのは、精神科医の斎藤環さんです。自身のnoteにてひとつの漫画作品としては激賞しながらも、通り魔の表現にだけは頑として認めない姿勢で「綿密な人物描写がなされていたのに、通り魔だけがステレオタイプで済まされた」「『ルックバック』は傑作だ。だからこそ、アンチスティグマへの配慮を求めたい」としています。
原版への抗議に対する「そういうとこやぞ」という返しにも言及し「『ありもしないメッセージを勝手に受け取ってる時点でおかしい』とでも言いたげ」「『そういうとこやぞ』には『精神疾患持ちに合理的思考力などない』『妄想語りなど聞くに値しない』『簡単に論破して恥をかかせてやりたい』という三重の差別意識が込められている」と激しく非難しました。
他にも「精神科医を30年以上やってきて、患者に暴力を振るわれた経験は数えるほどしかない」「『ポリコレ』に配慮しても面白い作品は出来る」「精神疾患者が心神喪失で無罪になった事例があるなら教えて欲しい。あったとしても、差別していい理由になどならないが」と持論を展開しています。
一方、斎藤医師のnoteへの反応は賛否両論というか冷ややかなものが多く「心神喪失による無罪」に至っては判例が5つぐらい列挙されていました。また「非難するだけしておいて、具体的な対案も出さず配慮だけ求めるのは卑怯だ」という、姿勢そのものへの批判もありました。
斎藤医師への反応が良くないのは、クレームによる作品の撤回や自粛が増え、ネット上がその動きに敏感となったことも一因でしょう。明らかに叩き趣味へ寄り添ったものは別ですが、ほとんど言いがかりで「差別的コンテンツ」の汚名を着せられ、あまつさえ規制を求められては当然反感も出てきます。
「配慮の強制は暴力だ」
行き過ぎた配慮の強制こそ暴力的だとする意見もあります。「まいじつエンタ」のライターである野木さんは「『配慮すべき』というルールを押し付けることもまた暴力的」「第三者が『傷つくかもしれないから』と抗議するのは正しいのか」と、作品を潰しかねない程の抗議ムーブメントに異議を唱えています。
野木さんは「『ルックバック』のテーマはクリエイターとしての生き方。主役2人だけでなく、被害妄想を抱える通り魔もまた同じ業を背負った人間である」「通り魔の造形を変えたり悲劇を他の出来事に変えたりするのは、作品のテーマを歪めてしまわないか」と述べています。他の考察でも「通り魔もまた『クリエイターの成れの果て』」とするものがあり、単行本で再度青葉容疑者ベースに変わったことで説得力をつけた説となっています。
抗議の内容は「通り魔に統合失調症を想起させるような物言いをさせている。偏見や差別を促しかねない」というものですが、そもそも作中で統合失調症とは明言されておらず、差別表現と断ずるのはいささか強引な気がしないでもないですね。
新人賞狙いが陥る闇
余談になりますが「京アニ事件」を受けて直木賞作家の志茂田景樹(しもだ・かげき)さんが「新人賞狙いが陥る闇」について自身のブログで述べていたので、そちらもお伝えします。
志茂田さんによれば「(小説家を目指して)懸賞小説に応募する人は、1次選考で落ちるのを何度も繰り返すと大抵は諦める。しかしごく一部は『才能に満ちた自分の傑作がなぜ評価されない!』と思い込む」「応募作品の下読みをする人によれば、数枚読んで駄作と分かるものに限って編集部へクレームをつけてくる」という傾向があるそうです。
そうした「懸賞小説の闇」に囚われた人間は「自分の傑作をパクられた」「出版社が工作した」などと偏った陰謀論を自ら作り出し、作家や出版社へ言いがかりをつけるようになります。志茂田さん自身も新人賞を取った頃は、そうした言いがかりをつけられることも少なくない状況でした。ところが、直木賞を受賞してからは志茂田さんに対する言いがかりや脅迫が完全に途絶えたそうです。
一方、志茂田さんは青葉容疑者についてこう断じています。「青葉容疑者は闇に歪められたのではない。元々歪んでいた人間が応募し、落選したのを勝手に逆恨みしてきたのだ」「そうでなければ懸賞小説の闇に歪められた作家志望者たちが可哀想だ。いずれ闇から抜け出してそれぞれにとって自分らしい人生を築けたはずだから」
参考サイト
「意思疎通できない殺人鬼」はどこにいるのか?|斎藤環(精神科医)
https://note.com
藤本タツキ新作「ルックバック」に非難殺到?果たして「心を傷つける作品」だったのか|まいじつエンタ
https://myjitsu.jp
志茂田景樹 公式ブログ 容疑者「京アニ大賞」に執着
https://lineblog.me