肥大型心筋症とともに歩んだ道のり

身体障害 暮らし

出典:Photo by Sebastian Pociecha on Unsplash

みなさんは「肥大型心筋症」という病気を知っていますか?

肥大型心筋症とは、通常の心臓より心臓の筋肉が異常に厚くなってしまうことで、心臓のポンプ機能に支障をきたす障害のことを言います。遺伝性があることが判明しており、家族内に肥大型心筋症の患者さんがいた場合、他の家族にもこの病気が認められる可能性があります。

サッカー選手が競技中に倒れ、そのまま亡くなってしまうケースなど自覚症状がないまま日々を過ごしてしまい、心臓発作で突然亡くなってしまう場合もある非常に恐ろしい病気です。

このコラムでは、そんな肥大型心筋症と診断された私の経験を書いていこうと思います。

肥大型心筋症と診断されたきっかけ

きっかけは小学校1年生の時の検診でした。心臓の波形に異常があるため精密検査を受けたところ、肥大型心筋症との診断を受けました。当時は小学生だったこともあり、それがどういうものなのか全く分からなかったのです。このときはまだ、運動制限もゆるく、激しい運動は禁止でしたが、運動会で短距離走を走ったりしていました。

転機は小学校2年の3月に訪れます。体育の授業中に心室細動をおこし、病院に緊急搬送されたのです。麻酔が切れて目を覚ました時「ここはどこなのか」「なぜこんなところにいるのか」「どれだけの時間眠っていたのか」さまざまなことが頭の中をかけめぐり、混乱したことを覚えています。

同年の5月ごろに「ICD(植え込み型除細動器)」の植え込み手術をおこないました。1度心臓発作を起こしたため「ふたたび同じことが起きると命にかかわる」との主治医の判断でした。手術後、左肩のずっしりとした感覚は今でも覚えています。

術後は特にこれといった問題もなく、無事退院が決まりました。長く入院生活を続けていたこともあり「やっと病院の外に出られる」という嬉しさを感じていました。

退院から中学生まで

ICDの植え込み手術も成功し、無事に退院となった私ですが、退院してからの体育の授業は、全面禁止となりました。もともと激しい運動はできないとの診断を受けていたこともあり、以前から見学が多かったのですが、すべて見学になってしまったので「これ授業うける意味あるのかなあ」と感じることもありました。

学校生活では、エレベーターを校内に設置してくださったり、教科書類は学校に置かせていただいたり、ランドセルだとICDを圧迫してしまうため別のカバンでの登校を許可いただいたり、多くの配慮をしていただきました。おかげで、自分が障害を持っていることで不便に感じることもなく過ごすことができたのです。学校の友達にも先生方が繰り返し説明をして下さり、重い荷物は持ってもらったりしていました。今振り返ると本当に恵まれていたと感じます。

中学校へ上がると、通学距離や時間も伸び、最初は体調を崩してしまうこともありました。しかし、ほとんど小学校からの延長だったため、周りも自分の障害について理解してくれている人が多く、遅刻が多かったのですが、徐々にペースをつかみ快適に過ごすことができました。

中学3年生の時、初めてのICDの電池交換をおこないました。

夏休みの2週間でおこなう予定だったのですが、リード線の断線が発覚し、もう1本追加しなければならず「退院するのは2学期が始まった後になる」と主治医から説明を受けました。勉強が遅れる焦りと、授業についていけるか不安を感じましたが、2学期に行うカリキュラムを、入院期間にできるだけ進めることで乗り切りました。

高校受験から現在まで

高校受験も終わり、志望校へ合格できた私ですが、今までは周りが自分のことに理解がありましたが、高校からは周囲の理解もないため、自分で説明しなければなりません。対処の仕方も自分でできるところと、配慮を求めるところを考えていかなければいけません。不安を感じたのを覚えています。

配慮に関しては、中学校での状況を伝え「体育は見学」「教室移動はエレベーターを使用」「重い荷物を抱えて長距離での移動ができないため、教科書類は学校に置く」など説明をし、同じ配慮をいただけることになりました。

学生に対しては同じクラスの人たちには、説明する機会をもうけていただき、理解してもらったのですが、別のクラスの人には説明する機会がなく、それが不安でした。進学校だったため、授業の進度も早く、家に帰ってから倒れこむように眠ってしまったりして、なかなか体力的にも精神的にも辛かったのですが「とにかく自分で対処しなければ」との思いが先行し、それを当時私は相談できませんでした。もっと周りに相談していれば結果も違ったのかなと感じる部分も多いです。

やがて高校3年生になると、学校も遅刻や欠席しがちになり、結果的に大学受験は失敗してしまいました。浪人生として勉強したのですが、またしても失敗してしまい、自己管理のいたらなさから「自分はダメな人間だ」と感じることも増え、精神的にまいってしまいました。

これ以上、浪人生を続けても仕方ないと感じ、母親が勤務しているクリニックの医療事務のアルバイトとして働き始めてちょうど1年が経過したとき、コロナウイルスの蔓延にともない、クリニック勤務はコロナウイルスに感染している患者と接することになるかもしれず、危険だと判断し退職。今にいたります。

おわりに

これまでを振り返ってみると、自分の障害に対する理解があまかったのだと痛感させられます。

小学生から中学生まで、周りがわかってくれていたことにあまえて、自分の障害を説明することを避けていたことに、今になって苦労しています。

また、高校時代を振り返って、自分のことを相談する重要性を学びました。「自分のことは自分で対処しなければ」と考えていた当時の自分は、もっと周りを頼るべきだったと改めて感じます。自分が抱えている問題を他人が察してくれるなんてことはなく、自分から発信しなければ、何もかわらないのですから。

現在私は、障害者就労支援サービスを利用し、就労に向けた訓練をおこなっています。オープン就労を希望していることもあり、訓練をおこなう中で、勤務時間は6時間からはじめて、徐々に増やしていく形で、休憩は適時とれる環境、入院等もあるので可能であれば休みの取りやすい環境がいい、など徐々に自分が働くために必要な環境や配慮が明確になってきているのを感じます。

今後は、自分の体調に目を向けて、適切に相談し、障害について説明できるようになるため、訓練を前向きに進めていこうと考えています。

フジト

フジト

肥大型心筋症を小学校1年生の時に診断され、2年生の時に1度心室細動が起こり生きるか死ぬかの瀬戸際の状態になりましたが、今日まで割と元気に生きてきました。現在就労に向けた準備を進めています。

身体障害

関連記事

人気記事

施設検索履歴を開く

最近見た施設

閲覧履歴がありません。

TOP

しばらくお待ちください