ただの交流に意味はありません~本物の交流学級を専門家が語る
暮らし「文春オンライン」に掲載されたとある記事、インクルーシブ教育の専門家である野口晃菜博士が聞き手のダブル手帳さんへ語ったのは、いわゆる交流学級の不十分さでした。「支援級の子を通常級に置くだけではインクルーシブ教育とは呼べません。ただ通常級へ放り込むだけのダンピング(投げ捨て)です」
「障害児とも一緒にいれば自然と分かり合える…などと言う人もいるのですが」と問うダブル手帳さんに対し「それは『幻想』ですね。社会に蔓延する偏見の中で児童も生きていますから」とバッサリの野口さん。野口さんが語る本来のインクルーシブ教育とはどういったものでしょうか。そして、今の交流学級に足りないものは何でしょうか。
置くだけ教育←無理
支援級の児童を同席させるだけでは教育にすらなりません。野口さんは「能力主義が抜けきらない教室では、出来ないことの多さから障害のある子が悪目立ちさせられ、周囲の白眼視や本人の自尊心低下に繋がる」と説き、出来不出来だけを重要視しない学級運営の大切さを訴えます。
ダブル手帳さんが「上の年代だと『虐められたり不出来だったりする惨めな体験が、障害児にとって貴重な社会学習になる』と配慮を投げ出すのも珍しくないと感じます」と古い教育観の存在に言及すると「あり得ませんね。そんな形に頼らないのが教育の役割だというのに、放棄していじめや排除を正当化するのは虐待です」と、またしてもバッサリです。
ダンピングにならない工夫のひとつとして野口さんは「自分の得手不得手・どういう時助けて欲しいか・どう接して欲しいかなど考える機会をクラス中で設ける」ことを推奨しており、その必要性は健常児にとっても変わらないとしています。
合理的配慮は空気作りから
学校現場での合理的配慮といえば、プリントに大きくルビを振ったりテストを別室で受けさせたりタブレットで補助したりと色々あげられます。しかし、これらが活用されていないのは全く珍しくないことです。教師やクラスメイトが受け入れなかったり、やる気を起こさなかったりするだけでなく、本人が拒んでしまう場合もあります。
口先だけで「配慮する」と嘯いたところで信じては貰えません。学校現場には「皆が同じペースで同じ勉強をする」ことを是とする空気が染みついており、それが内面化されています。配慮が受けられる空気を作らないことには表にどんな言葉を並べても無意味でしょう。
逆に「うちは通常学級だ。通常学級へ来たからには甘えは許さん」などと配慮を投げ出し、全責任を障害児に押し付ける教師さえいます。これに野口さんは「教師の怠惰よりも大元の構造に問題があります。障害を理由に通常学級と支援学級の選択を迫られる事自体がおかしいわけです。健常児がそのような選択を迫られることはありませんので」と厳しい意見です。
「『特別扱いはしない』と言われ続けてきたので、教育と合意形成は対極だと思っていました」とのべるダブル手帳さん。野口さんは「段々と主体性を重んじる教育が芽吹きつつあります。配慮を『ずるい』と言われるのは寧ろ、人権や障害について学び皆でルールを考え作っていくチャンスなのです」と、現代教育が進んでいるビジョンを説きました。
障害者は確かにそこにいる
この記事並びに対談は、小山田圭吾氏の所業が今度こそ炎上したことにも触れられており、小山田氏の母校である和光学園自体がダンピングの例として挙げられています。記事の最後には、小山田氏に関する報道の過熱に関連してダブル手帳さんの独白がつづられていました。
いわく「小山田氏の報道が過熱する裏で、虐められる側の障害者は置き去りにされていた」「小山田氏への熱心な取材とは対照的に、障害者側の話はほとんど聞かれなかった。直接の関係者に当たれずとも、似た経験を持つ障害者や保護者・関係者など、語れる人は多かったはずだ」
そして、ダブル手帳さんは「メディアを通して伝えるのが難しいメッセージ」として3つの提言を残します。
「障害者は報道が無くとも常に存在する。悲惨な事件や旬の話題にだけ現れて消える陽炎(かげろう)ではない」
「障害者は飾りでも叩き棒でもない。何かのために作られた道具ではない」
「障害者は客体・目的語だけではない。主体・主語にもなる」
子ども同士でもダンピングする現実
記事で語られるダンピングは、障害を持つ子を雑に通常級へ置くだけの出鱈目な態度を指しています。大人がそういう態度であれば、子ども達にも伝染しないはずはないでしょう。クラスメイト同士でもダンピングが発生します。過去の支援学級関連のコラムで度々言及している「低スクールカーストへの押し付け」です。
まず、高スクールカーストの生徒は支援級からきた障害者をそれとなく回避し、低スクールカーストが自然と関わっていきます。経験則では1~3人程度が固定され「~ちゃん係」として定着すると思います。低スクールカースト側が自ら好意的に関わる場合もありますが、空気と流れでいつの間にか押し付けられていることもあります。
なんなら班まで固めて障害を持つ生徒を押し付けるケースすら存在し、障害を持つ生徒が投げ捨てどころかいじめの道具として利用までされます。
最悪なのは教師自身が積極的に「~ちゃん係」を推奨するような場合です。クラス内でのダンピングにお墨付きを与えるばかりか、教員としての責任を放棄までする最低な行いです。「面倒を見きれない」「支援級の担任の代わりが欲しい」などの理由で、仲のいい生徒やそのグループに頼んでくる有様は、色々な意味で「だめな大人」でしかありません。
楽しい付き合いを続けられるならいいですが、支援級の生徒に振り回され続ける不健全な関係では障害者に対する差別感情を植え付けてしまうかもしれません。皮肉なことに「できないことはできない」「おかしいものはおかしい」とはっきり断れる生徒の方が、キャパオーバーしないために障害者を見限らないという意見まであります。
一方、障害のある生徒と関わることなく過ごした高スクールカーストの人々は、障害者を知らない大人となり「うちの生活圏に障害者など存在しない!」と平気でいい張るようになります。大抵は高スクールカーストが世論を動かす側なので、先述したダブル手帳さんの提言は瞬く間に捻り潰されてしまうわけです。 こうしてインクルーシブは遅れていくのでありました。
参考サイト
「一緒にいれば分かりあえる」は幻想だ…小山田氏“障がい者イジメ”発言で注目、知られざる「ダンピング」の実情
https://bunshun.jp
発達障害の子の「お世話係」について
https://ameblo.jp