ポジショントークの熾烈な世界
暮らし人にはそれぞれ立場というものがあり、名前のある地位とまでいかずともその人自身の属性がそのまま立場となることも少なくありません。自分の立場が何であれ、それを有利にしてもらうよう発言することを「ポジショントーク」と呼びます。
個人が主観に基づいて言いたい放題できるため、便宜を図るというほどではありません。しかし、同じ立場から同じ意見が噴出すれば、それはもう言論デモの領域に達し「世の中を動かす」かもしれないのです。良かれ悪かれではありますが。
言論での部族闘争
ポジショントークは簡単にいってしまえば「言論でおこなう部族闘争」に行き着きます。自分の属性にとって都合のいい展開になるよう理屈をこねくり回すわけですから、部族闘争と解釈できると思います。ここでいう「部族」とは人種や国籍にとどまらず、年代、性指向、趣味、お菓子の好みと大小問わない様々なくくりにまで影響するものと解釈してください。それこそ「障害」も含みます。
金融用語では「市場参加者などが自らのポジションへの利益を期待して言論を振りまくこと」「しばしば主観的で、自分のポジションが有利になるよう発言したり情報を流したりする」「単なる憶測や市場予測程度ならまだしも、明らかなウソを流した場合は『風説の流布』として法的責任を問われる可能性がある」と定義されています。
一般的な意味も金融でのそれとおおむね変わらず「自分のポジションが有利になるよう客観性に欠けた言論を振りまき、時としてデマを流すことさえある」となります。これだけ書けば、なんとも誠実さに欠けた人間像が浮かび上がってくることでしょう。
一方、Wikipediaでは「自分の立場によって行われる発言」と解釈されており「たとえ不本意であっても立場上我慢せねばならない」という側面も訴えられています。例えば「理不尽なクレーマーをすぐにでも追い返したいが、店員という立場上失礼なく応対せねばならない」という状況です。
とはいえ、我儘で利己的なイメージが先行している以上「立場上仕方なく我慢して」というイメージで取り上げられることは少ないでしょう。
マウントとの違い
ポジショントークとマウントはしばしば混同され、両者は別だと力説するネットの記事や論者もまた多いです。マウントというのは自分を優位に見せようと自慢したり相手を下げたりする言動で、確かに発言者の立場はあまり関係ないようにも思えます。
しかし、ポジショントークとマウントは別でこそあれ両立しうるものではないかと考えています。なぜならば「自分が気持ちいいと思うこと」がそのまま「自分の利益」になるからです。
例えば、この寒い時期に東京の積雪が報道されると、北日本から「東京モンは数センチ程度の雪で騒いでみっともない!」と雪国マウントが飛んできます。雪国住まいからのポジショントークではありますが、東京を馬鹿にしたところで自分たちの積雪量が減るわけでもありません。しかし「東京モンにマウントを取れて気持ちがいい」と思える利益はあります。
マウントを取って悦に浸るだけでも、それが利益だとすればポジショントークとして成り立つと思います。たとえ毒を吐いてスッキリするだけの些細な利益だとしても、自分の立場にもとづいて客観性に欠けた発言であれば、それはポジショントークといってもいいはずです。
本能の領域で行われる
ポジショントークとは言論で行う部族闘争の形と説明しました。いい換えれば、ヒトの群れ同士で行われる争いといってもよく、原始的な本能の領域でおこなわれています。ポジショントークとはヒトの本能に忠実なおこないでもあるのです。
ゆえに、ポジショントークを完全に廃することはできません。たとえ不誠実であっても、理性でコントロールするには限界があります。自分の立場を無視した物いいは、寧ろ生きる本能に反する愚行にすらなりえます。
とはいえ言論を用いた「闘争」であるわけですから、傍目から見れば醜く不快に映ることもやむ無しです。例えば「LGBT+」が近年「LGBTTQQIAAP」や「2SLGBTQQIA+」などと長くなり過ぎた件です。プラスでくくられていた性的マイノリティの主張が通って吉とみるか、パスワードのように冗長化して略称の役割が薄れ凶とみるかで意見は180度異なるでしょう。
あらゆる戦争のきっかけは「飢餓」にいき着くといわれています。騒がしいポジショントークの応酬も、生きづらさという飢えの表れかもしれません。
参考サイト
ポジショントーク|金融/証券用語集
https://kabu.com