自身の生涯を福祉に捧げた糸賀一雄氏はどんな人?
暮らし 知的障害出典:http://www.photo-ac.com/
糸賀一雄氏は日本の障害児童福祉の第一人者と言われ、戦災孤児と知的障害児のための施設「近江学園」や、重度心身障害児のための施設「びわこ学園」を開設するなど、多くの障害者施設の設立に尽力しました。また、全日本精神薄弱者育成会の理事(手をつなぐ親の会)として、国の制度づくりも手掛けるなど、その一生を障害福祉のために捧げました。
我が国の「知的障害者の父」とも呼ばれ、全国に優秀なリーダーを送り出し、知的障害のある人の福祉法制定の原動力として活躍し大きな足跡を残しました。
糸賀一雄氏は「共に生きる」を実践した人
糸賀一雄氏は1914年の鳥取県生まれで、母子家庭で育ちました。高校時代にキリスト教に入信。
小学校の代用教員を経て滋賀県庁に社会教育主事補として奉職したのち、戦災孤児や障害児のために力を尽くそうと活動を始めました。当時は国家も障害者に対して法や概念すらなく、理解が乏しかった時代で池田太郎氏、田村一二氏の懇願を受け、知的障害児等の入所・教育・医療を行う「近江学園」を創設し園長となりました。
その後、落穂寮、信楽寮、あざみ寮、日向弘済学園などの施設を設立しました。糸賀氏はこれらの施設について、障害者を隔離収容するのではなく、社会との橋渡し機能を持つという意味で「コロニー」と呼んでいた。
近江学園の設立後は障害児の比率が増えていくのとは裏腹に、当時は十分に食べるものもなく苦労したといいます。
困難の中で見い出す一人ひとりの存在
近江学園の創立はあらゆる困難の連続でした。しかし、どんなに障害が重い子どもでも「普通時と同じ発達の道を通るということ、どんなにわずかでもその質的転換期の間で豊かさを作るのだということ、治療や指導はそれへの働きかけであり、その評価が指導者との間に発達的共感を呼び起こすのであり、それが源泉となって次の指導技術が生み出されてくる。」と述べ、子どもが発達する権利とその補償を目指すという発達保障の思想を確立しました。
「共生社会」と「人」がありのままに存在することに価値を見出し、「この子らを世の光に」という言葉を残したのです。
女性職員の活躍
当時は「保母」と呼ばれる女性職員の役割は重要でした。近江学園の保母は子どもと寝起きをともにしており、子供の生活のなかで母親代わりとなって支えていました。「情操陶冶(じょうそうとうや)」という今で言う「教育」のためにも「保母が優しい母親や姉のような立場になって、その子どもの心に肉迫せねばなりません」とし、朝から晩まで、常に子どもと一緒であり、一息つく暇もなく世話や家事に追われていました。
母親代わりとされながらも、教育者として長い目で子どもの姿をとらえることができることは、糸賀さんの思想の中で、指導技術が形成され、女性職員の役割が明確にされたからです。
「この子らを世の光に」とは
当時は障害のある子どもや戦災孤児でしたが、現在でいえば虐待を受けている子どもや貧しい状況の子どもといったいろんな子供たちの事を指すでしょう。「世の光」は誰もが潜在的に持つ人間の光のことで、そんな子どもたちが「あるがまま」を表現できる環境を作っていきたいという思想です。
「この子らを世の光に」というフレーズのモデルは聖書の中に書かれています。新約聖書マタイによる福音書5章14節に「あなたがたは世の光である」と書かれています。
憐みの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるからもっと輝いてほしいという、子どもたちの可能性を見出した信念です。
最後に
これまで障害者の立場は弱く、邪険にされてしまうことが多々あり、悲しい面もたくさんありますが、糸賀一雄さんたちがその社会を切り開いて今日の障害者支援機構が生まれているのだと思います。これからも障害者たちが社会の一員として活躍できる支援が福祉の基本になっていくのではないかと考えています。
参考文献
公益財団法人 糸賀一雄記念財団
http://www.itogazaidan.jp
最後に
これまで障害者の立場は弱く、邪険にされてしまうことが多々あり、悲しい面もたくさんありますが、糸賀一雄さんたちがその社会を切り開いて今日の障害者支援機構が生まれているのだと思います。これからも障害者たちが社会の一員として活躍できる支援が福祉の基本になっていくのではないかと考えています。
参考文献
公益財団法人 糸賀一雄記念財団
http://www.itogazaidan.jp
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