「ホワイト化社会」といじめ問題〜潔癖さと求める正義が「新たな刃」に変わるとき
暮らし
昨年の夏、ある甲子園出場校のいじめ問題がSNSで波紋を呼び、加害者とされる生徒の実名や顔写真まで拡散されました。さらに別の高校のサッカー部がいじりを巡って大会出場辞退を検討した件なども、SNS上では無数の正義が飛び交い、無関係の人々まで巻き込む論争になっています。
こうしたニュースが相次ぐたびに、私は思ってしまうのです。
いじめそのものは言うまでもなく、それを取り巻く社会の空気が以前よりずっと攻撃的になっているのではないか、と。
集団に潜む「排除の力学」
いじめはいつの時代にも存在し、どれだけ社会が変わっても完全には消えません。
それは人間そのものに備わった攻撃性や同調圧力、そして集団が持つ目に見えない力学が原因で、特定の誰かを排除する方向へ働いてしまうからではないでしょうか?
特に体育会系の部活動は、この力学が顕在化しやすい場所ではないかと思います。
縦の関係、暗黙のルール、共同体意識の強さなど…
これらは本来、技術を磨き、仲間を支え合うための仕組みです。
礼儀や規律、忍耐といった価値は、教育の一環として大切なものでもあります。
けれどそれが、上下関係の中で作用したとき、「守るための規律」が「従わせるための力」へと変わってしまう危うさを抱えています。
そうした集団の内部で起きる些細なからかいや指導は、時にその境界線を見失い、気がつけば一人の生徒を共同体の外側へと押しやる力として働いてしまう。
そして当事者たちは、その排除の行為を「ただのいじり」「仲間内のノリ」として正当化してしまうこともあります。
透明性を極端に求める「ホワイト化社会」の罠
しかし、いじめの構造そのものが変わらない一方で、それを取り巻く社会の目は近年大きく変化しています。
SNSの普及によって、私たちは互いを常に監視し、誰かの振る舞いを正しいか間違っているかで瞬時に裁くようになりました。
この『透明性の圧力』こそが、いまの時代の特徴です。見えなかったはずの他人の行為が見えるようになり、見えたものは評価しないと気がすまなくなる。
それは一見、健全な監視のように見えますが、常に透明であることを求める社会は、やがて『粗探し』を続ける社会へと変わっていきます。
透明性を極端に求める社会は、結果として見える範囲だけを綺麗に保つ方向へ進みます。見える場所は白く整えられ、見えない場所はどれだけ濁っていても構わない、あるいは見せても問題ない形に変えてしまえば大丈夫という考え方です。
この「見える/見えない」の二層構造こそが、悪意が地下で熟成してしまう原因になります。
この構造が固定化されるとき、社会の中で起きる変化はいじめの現場だけにとどまりません。
「語ること」がリスクになり「潔癖さ」に収束する
しかしこうした構造の中で、もうひとつ見逃してはいけない変化があります。
それは、「語ること」そのものがリスクになりつつある社会です。
SNS等では言葉は簡単に記録され、切り取られ、本来の文脈を失ったまま流通します。その言葉が、いつ、どの角度から「不適切」と判断されるのかは、発した本人にも、受け取る側にも、事前にはわかりません。
結果として人は次第に、何を考えているかではなく、どう見えるかを優先するようになってしまうかもしれません。
証拠の残る場所では、踏み込んだ考えは語らない。強い感情は表に出さない。
代わりに、無難で、清潔で、誰からも非難されにくい言葉だけを選ぶ。
それは賢明な自己防衛でもありますが、同時に社会全体が「いい人、潔癖な人に見える振る舞い」へと収束していく過程でもあります。
不完全さを抱えたままで
こうして表側はますます白く整えられていきます。
しかし、感情そのものが消えたわけではありません。
語れなくなった怒り。
名指しできなくなった違和感。
「これはおかしい」と感じた瞬間に、飲み込まれた言葉たち。
それらは消滅するのではなく、ただ『居場所を変える』だけです。
表で語れないものは裏側へと押しやられ、名前を持たないまま蓄積されていく。
その結果、私たちの社会は「見える部分だけが清潔で潔癖で、見えない部分に濁流を抱え込む」二層構造を、ますます強めていくでしょう。
この構造の中で起きる「いじめの告発」は、確かに重要な意味を持っています。
沈黙を強いられてきた声が、ようやく外に出る契機になることもあるからです。
けれど同時に、告発が可視化された瞬間から、それは別の力学にも巻き込まれます。
それは誰かを糾弾するための材料として消費され、怒りや正義感が当事者の文脈を離れて増幅していくのです。
そしていつの間にか、「問題を考えること」よりも「誰を裁くか」という関心のほうが、前に出てしまうことも少なくありません。
ここで起きているのは、悪意と善意の単純な対立ではありません。
むしろ、潔癖さを求める衝動そのものが新たな悪意を生んでしまうという逆説です。
いじめの原因となる悪意は、社会から完全に消すことはできません。
それは「排他性」や「攻撃性」などの、もともと人間が持つ感情の「不完全な性質」に深く結びついているからです。
だからこそ問われるのは、「いじめをなくすこと」そのものよりも、「それを見つけたとき、私たちがどう受け止め、どう扱おうとするのか」という姿勢なのではないでしょうか。
完全に白い社会を目指すことは、一見正しく見えます。けれどその白さが、不完全な感情や矛盾を見えない場所へ追いやるものであるなら、それは別の形の暴力を静かに育ててしまうでしょう。
必要なのは完全であることではなく、不完全さを抱えたまま考え続けることです。
白く塗りつぶすのではなく、濁りを見つめ、そこにどう光を差し込むかを探ること。それこそが、今この時代に求められている「いじめとの向き合い方」なのかもしれません。
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