京アニ放火事件にやまゆり園を持ち込む人がいる
暮らし その他の障害・病気 ニュース戦後最悪の放火殺人事件となった京都アニメーションの事件は、35人もの死者を出し、資料や機材などにも甚大な被害が及びました。アニメファンのみならず公人私人国籍の別なく各地から哀悼の意が示されています。今月の頭には一部死亡者の情報が公開され、功績や前途などが改めて惜しまれました。
ところで、京アニ放火事件を語るにあたって「やまゆり園」を持ち込む人がいます。3年前のやまゆり園殺傷事件も死者19人にのぼった、これもまた戦後最悪の事件です。
やまゆり園を持ち込む人は決まって、「京アニとやまゆり園の扱いの差」を指摘し、「お前らは差別主義者だ!」と言わんばかりに罵ります。しかし、そういう本人に限ってやまゆり園のことは大して深刻に考えていないのではないでしょうか。
拡大解釈は藁人形論法のはじまり
藁人形論法とは、相手の主張を不適切に引用してもっともらしく反論するやり方で、故意にやっていれば詭弁となります。藁人形論法による主張に正当性はないのですが、一見妥当な主張に思われるため周りはおろか言い出した本人すら騙されてしまう魔の論法です。
今回のケースは「京アニスタッフを悼む」という声に対し「やまゆり園を悼んでいない!」と拡大解釈して、「京アニばかりでやまゆり園を顧みない者が多い!」と憤っています。3年前のやまゆり園を忘れていると決めつけた上で言っているので大胆なものです。
やまゆり園を持ち出して京アニ事件の話題に入り込んだ理由は、「命の軽重を問う」などと崇高で哲学的なものではないと思います。むしろ哲学じみた(≒答えのない)質問を上から目線で投げっぱなしにするのは低俗な行いです。やまゆり園を持ち出した真意というのは、単に「京アニ放火で悲しむ有象無象より高尚な自分」に酔っていたいだけではないのでしょうか。障害者にも目を向けてほしいという思いで言ったのであれば、タイミングも内容も全てが間違っています。
「失われるべき命はない」だけでは不満か
質問の動機が何であれ、「京アニとやまゆり園」は「命の軽重とは」に繋がっていきました。「命に軽重を付けている訳ではなく接点の有無でどうしても反応に差がついてくる」という答えで落ち着いていますが、それでも納得しない人はおり「やはり障害者の命を軽んじる人が多すぎる!」と泣き叫んでいます。
確かに感情で判断すると命を悼む度合いに差は出てきます。親密な隣人と疎遠な隣人に同じ程度の感情を抱くほうが不自然です。だからこそ法律や理性などによって「命の平等性」を担保しており、「失われていい命などない」というスローガンを暗黙の了解として広めているのです。それだけで過去の大量死傷事件に対する全否定となっているのですが、まだ不満があるのでしょうか。
「生産性」論争のゴング
ただ、「生産性」や「才能」を「命の軽重」に直結させた意見は否定せねばなりません。京アニスタッフは職人集団で代わりがきかないと言われており、「惜しい人を数多く亡くした」という客観的な評価としては概ね正しいです。しかし、「生産性すなわち命の重さ」などと言われかねない危うさは無視できません。
貴ぶべき命かどうかを「生産性」などで勝手に判断するのはやまゆり園の教訓が活きていないことを意味します。今回の流れで「やはり人は生産性で決まる!」と締め括られることこそ最も憂慮すべきことではないでしょうか。
「京アニもやまゆり園も平等に悼め!」も「惜しまれない命もある!」も極論同士のぶつかり合いです。住み分けされていた感情と理性を好んで戦わせる対立煽りこそ生産性のない非建設的な行いではないでしょうか。
まとめ
京アニの事件に対してやまゆり園との対応の差を持ち出す心理というのは、問題提起というより仮初めの自己優位性に浸っていたいマウント体質によるものではないかと感じています。そもそも、言うほど対応に大差があったのかというとそうではありません。3年前の初報で与えられた衝撃が薄れていたからこそ、差を感じていたのではないでしょうか。
なお、「やまゆり園の時は首相声明など無かったのに!」というのはデマです。やまゆり園でも事件日正午の時点で首相声明はありましたし、厚生労働省の職員も即座に派遣されていました。デマを撒いた側は「毎年お悔やみを述べろ!」という気持ちだったのかもしれませんが。
参考文献
ストローマン - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org
安倍首相「真相解明に全力挙げる」 相模原殺傷受け:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com
その他の障害・病気