33年前の名文「ボランティア拒否宣言」を考察する
暮らし30年以上前、大阪の機関紙に「ボランティア拒否宣言」という詩が寄せられました。「花田えくぼ」というペンネームの筆者は、車椅子を必要とする身体障害者であろうことしか分かりません。しかし、この謎多き投稿者による問題提起は、ボランティアのみならず障害者福祉を受ける当事者や携わる職員などにも痛烈に突き刺さる名文として今なお語り継がれています。
原文は参考サイトなどに載っていますので、そちらを別のタブかウィンドウで開きながら読むことをお勧めします。なお、ここからは自分なりの考察ばかりなので、皆さんの解釈とは乖離しているかもしれません。
自分も犬に例えている
筆者は自分に近づくボランティアを「ボランティアの犬」と呼び、自身を堕落に導き社会性を奪う誘惑あるいは自身を「アクセサリー」や「夏休みの宿題」として利用する存在だと激しく非難しています。そもそも冒頭で「私の敵」と定義づけており、強い敵愾心があることを読者に知らせています。車椅子で移動しやすいスロープなどの設備が今ほど整っていなかった時代背景を加味すると、よほどプライドを踏みにじってくる何かがボランティアから感じられた過去があるのでしょう。
その一方で詩の終盤では、「私はその犬たちに尻尾を振った」「汚い手で顎をさすられた」と筆者自身も犬に例えられており、逆にボランティア側が飼い慣らしたり手を伸ばしたりとヒト的な描写が目立ちます。寧ろ「ボランティアの犬」に犬らしい描写はなく、擬人法ならぬ擬犬法は筆者にしか用いられておりません。(車椅子を漕ぐなどヒト的行動はしていますが、そこまで突っ込むのは野暮でしょう)
主体性のない犬と意志を持ったイヌ
「ボランティアの犬」と筆者自身であるイヌは同じ意味で用いられた文脈ではないように感じます。通常、犬という比喩は何者かの従順なしもべを意味しますので、「ボランティアの犬」もまたしもべの意味合いがあると思われます。ですが、ボランティアの母体などをほのめかして批判している箇所はありません。そうなると、自分の意志を持たず行動しているという解釈に落ち着くのではないかと思います。しかし、悪意がないからこそ筆者は彼らの行動に激しい憤りを覚えているのでしょう。
(功名心は当時の倫理観だと当てはまらないと思います。ボランティアの重要性が増したのが95年の震災からなので、時代考証的に無理があります。)
一方、筆者の分身であるイヌは、尻尾を振って撫でられる本物のイヌです。しかし、「ボランティアの犬」と違って自分の意志を持っており、「いい気持ちにさせてあげない」「その手に噛みついてやる」とイヌなりの抗議を考えています。最後には「誇り高い狼」として生きる誓いまで立て、自分一人で車椅子を動かす決意を固めています。
筆者とボランティアの決定的な違いは意志の有無にあるのではないかというのが全体的な考察となります。
数ある選択肢の一つに過ぎず、最適解ではない
障害者福祉すらろくに確立されていなかった当時において、花田えくぼ氏が詩に載せた介助を拒む決意は非常に強い人物像を窺わせました。とはいえ、この選択が障害者にとっての最適解とは限らないことは念頭に置かねばなりません。安易に真似して福祉的な支援を断ると、自分で自分の首を絞める結果になりかねないからです。
どの支援をどう受けるかなどの5W1Hは、当事者によって最適解が異なります。本人の意志を尊重するにせよ、目測が誤っていると十分な支援を受けられません。当事者によっては、花田氏の嫌う「いい格好をしたいボランティア」の介助でも喜んで受けるケースもありえます。または、ボランティアではなく職業ヘルパーの支援のみを受ける選択もあるでしょう。
どのように自尊心を守り育んでいくかの問題が「ボランティア拒否宣言」の根底にあるので、最終的な答えは当事者とTPOと運によっていくらでも変わってきます。花田氏の忌み嫌うボランティアこそが、別の当事者にとっては誇りをもって従事していることかもしれません。結局これといった答えを性急に出すものではないといったところでしょう。自分の生活と関連しているのであれば猶更です。
まとめ
「ボランティア拒否宣言」が出た33年前は、バリアフリーも進んでおらずボランティアも周知されていませんでした。筆者の花田えくぼ氏は早くから、後に「感動ポルノ」と呼ばれるものの媒介へされる事を嫌った形になります。
これはボランティア批判というよりも、自尊心を守り育むためにとられた花田氏なりの方法だったのでしょう。こうなると決まりきった答えを出すのは極めて難しいのではないかと思います。各々の信念と堪忍と折り合いによって答えはいくらでも変わってきます。自分も意味が分からなくなってきました。
参考文献
ボランティア拒否宣言 – 英語たんの部屋(仮題)
https://sites.google.com