双極性障害~うつ病から入院をして分かった病名の体験談
双極性障害(躁うつ病) うつ病うつ病と分かった時、精神科医が変わり職場を休職と復職を繰り返していた日々、入院生活をして新たに病名の告知された時、親の介護と病気の両立、就労移行支援事業所を通所している今現在、そして、将来のことについて。
最初にでた心身の変調のサイン
私は、学校卒業後に一般企業に正社員として入社しました。入社当時は、仕事と休日の両立が出来て、友人や会社の仲間と共通の趣味で充実した毎日を送っていたと思います。そして、年齢を重ねる度に責任のある立場となり、30代で管理職となりました。しかし、管理職となると業務量が倍増し、ある日「何かがいつもと違う」と心身の違和感に気が付きました。無理を押して出社しましたが、仕事のミスが多くなり、上司からの叱責や残業量も増えてしまい、休日出勤して仕事を処理するはめになりました。部下からは、「無理をしないように」と気遣いの言葉も貰っていたのですが、ついには心身共に限界を迎えてしました。当時の症状は、不眠、気分の落ち込み、不安感、食欲不振、肩こり、そしてあんなに楽しかった趣味が全く楽しくなくなってしまったのです。こんな状態が1ヶ月も続きました。
うつ病と診断されて
家族や会社の保健士の方に相談した結果、心療内科に受診する決意をしました。結果は「うつ病」で翌日から3ヶ月間会社を休職するように言われました。自宅療養で仕事のことを頭の中から一旦リセットして、復職に向けての日々を送っていました。
医者によると、真面目で几帳面な完璧主義者はうつ病にかかるリスクが高いそうです。自分にも当てはまるふしがあります。それから、2週間に1回主治医のカウンセリング及び服薬治療が始まりました。ストレス発散のためにスポーツジムにも通いました。その効果もあり診断書どおり、3ヶ月後に主治医から復職の診断書を受け取りました。主治医から無理をしないように短時間勤務で働くように言われ、短時間勤務で約半年間続けていました。その後心身共に良くなり、管理職への復職希望を上司と相談をしました。なぜ管理職に戻りたかったと説明すると、部下を裏切ってしまことへの罪悪感があり、さらに仕事は誰にも負けたくないという変なプライドがあったからです。今にして思えば、このプライドを捨てておけば良かったと後悔しています。
約5年間心身共に良好だったので、通院と薬を辞めてしまいました。今考えているとここがターニングポイントでした。それから徐々に業務量が増え、休日出勤、夜勤などが続き、過労死ラインの一歩手前までいって、身体を壊してしまいました。診察の結果、病名は「うつ病」でした。そして再び3ヶ月間の休職となりました。通院と服薬治療で心身共に良好となり3ヶ月後に復職しました。復職を期に会社の配慮もあり、管理職からの配置転換がありました。もちろん今回は担任後も通院と服薬治療は、欠かさしませんでした。
親の介護と入院
それからしばらくして、親の介護が私に圧し掛かってきました。独身である私が親の介護を引き受けることを承諾しました。やがて、自分自身の病気と親の介護で精神的に病んでいき、またうつ病の状態が発生してしまい約1年間休職をしました。当時わたしは、他部署での慣れない仕事と親の介護で、重圧が心に圧し掛かってきて「もうだめだ」と思う毎日でした。やがて、自宅に引きこもる状態が半年程続き自暴自棄の状態となり、主治医や家族と相談して会社を退職しました。
その後入院のために、私は無理やり自宅から引っ張り出されて車で病院に連れていかれたのを覚えています。その時私は内心「ほっと」していたような気がします。このまま症状が悪化して壊れていく私と、自宅から「助けられて」安心する私、二人の私がそこにはいました。
閉鎖病棟での苦痛
精神科の病院に入院する形態は、「任意入院」「医師保護入院」「措置入院」などがあります。私は、「措置入院」を1ヶ月間経験しました。酷い症状だったため、閉鎖病棟で入院生活を送りました。正直のところ私には苦痛の毎日でした。食欲減退と無気力の状態で点滴の毎日で、体重が激減しました。
ある朝に起床できなくなり、体温が40度あり寒気を感じてきました。ストレスからくる腹膜炎で、緊急入院・手術をしました。リハビリは翌日から行い、幸い2週間後に退院しました。その後、精神科の病院に再入院して、またも入院生活が始まりました。
家族や友人が面会に来てくれた時は内心嬉しかったです。しかし、表情は硬く能面のようになり、笑顔が私から消えていました。入院中、患者さんとトラブルになったこともありました。幸い怪我は軽傷で済みました。その患者さんは、病気の影響で幻聴、幻覚の発作が出てしまっていたようです。
とにかく、1か月間は個室部屋でしたが、毎日が苦痛だったので「早くここから他の病棟へ移りたい」と思う毎日でした。
面会に来てくれた家族が帰る背中がとても辛かったです。
自由病棟で双極性障害と診断される
閉鎖病棟から1ヶ月後に自由病棟に移れるまで体調が良くなっていきました。自由病棟に移ってからは心にゆとりが出てきました。作業療法士の方と社会生活のリハビリとして財布作りや軽い運動・カラオケ等ができ、ストレス解消を行えて心身共に良くなっていきました。
自由病棟は、主治医に外出や外泊の申請をして、毎日近くの公園を散歩や、中学生が行っている軟式野球の試合を観戦してました。主治医の承諾を得れば外出や外泊も出来るようになりました。ですがその頃に、主治医が衝撃的な事を私に告げました。貴方の本当の病名は、「双極性障害」ですとはっきり告知しました。病棟に移っていた頃から、初対面の患者さんと消灯時間過ぎても話をしたり、多弁、過干渉になったり、無駄使いをしたりという躁状態でした。精神科医はやはりプロなので、私の入院生活の行動や言動は見逃さなかったのです。この時から、自身の病気と向き合って生きていこうと、前向きに考えるようになりました。そして、日々の投薬治療を経て、副作用もありましたが約3ヶ月後に退院しました。
入院生活で得たことは、「双極性障害」と上手く付き合っていこうと思える様になった事です。
就労移行支援事業所を通所している楽しみ
退院後は親の介護をしながら生活していました。残念ながら一昨年に親は天国に旅立ちましたが、最期も見届けることが出来たので後悔はありません。
通院は欠かさずに、毎週病院の訪問看護を利用して、服薬管理と血圧・体温測定や生活面と、心身面での悩み相談をしています。結果は主治医と共有しているので安心感があります。 今後の就労のことを行政に相談したところ、就労移行支援制度を利用して、次の仕事を探すのがベストと聞き、私は、思わず「これだ」と思い利用する決意を固めました。 現在は、心身共に体調も良く、次の仕事を長く働けるように、週5日間カリキュラムを受けたり個別訓練、応募書類作成、作業訓練、職場実習などを行い、日々を満喫しております。
通所し始めの頃は緊張しておりましたが、通所を続けていく内にかつての管理職としての経験がだんだんと発揮出来るようになりました。グループ討議でのリーダー役や人前での講話は現在も訓練を行っております。
今振り返ってみると、挫けそうな時でも色々な方に支えられてきました。感謝の気持ちを持って生きていきたいと思います。正直なところ年齢の壁がありますが、病気の配慮がはっきり言える人間になって、自分の強みを発揮できる職場を探したいです。
私の持論ですが、目標を持ち、それに向かって日々精進し、達成できるように取り組むことが大切だと思います。色々な方の協力があり現在、就労移行支援事業所に通えて感謝の気持ちを忘れずに前に進んでいきたいです。
今日という日は一回しかありませんので、日々を大切にして生きたいと思います。笑っても一日は一日、泣いても一日は一日です。曇りの日、雨の日は「双極性障害」に負けないように日々晴れの日の青空のように明るく生きたいです。
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