「聴覚障害者の逸失利益は健常者の4割で十分」という発言について
身体障害2019年に大阪市生野区で、聴覚支援学校に通う小学5年生の女子児童がホイールローダーに衝突し死亡する事故がありました。信号待ちの女子児童へ一方的に突っ込んだホイールローダーの運転手は、てんかんを隠して乗り続けた悪質性から既に懲役7年の実刑判決を受けています。
刑事裁判とは別に、交通事故の慰謝料などを決める民事裁判も進んでおりました。そんな中、被告側は「逸失利益は健常者の4割まで減額すべき」と、原告側への挑発とも取れる主張をしています。逸失利益とは、その事故が無ければ得られたであろう利益と言う意味で、児童の場合はだいたい平均賃金から算出されます。
ちなみに、被告側は児童を死なせた運転手だけでなく、その雇い主と入っていた保険会社も含まれます。逸失利益の計算自体は保険会社の受け売りではないかと言われているそうです。
9歳の壁
被告側は逸失利益4割の根拠として「聴覚障害者には『9歳の壁』というものがあり、高校を卒業するころでも思考力・言語力・学力は小学校中学年程度に留まっている」と述べています。
「9歳の壁」は昔のろう学校長が命名したとされ、「小4の壁」という別名も持っています。小学4年生から分数や文章問題など抽象的な勉強が増え、思考力の養成が始まりますが、聴覚障害者には情報格差があって思考力が殊更育ちにくくなるというのです。ただ、学習言語(学校の勉強で使う言語)を視覚情報や手話で学習するなど方法は無数にあり、絶対に越えられない訳ではありません。ただし、9歳の壁を越えられず成人することも皆無ではありませんし、これは聴覚障害者に限ったことではありません。
9歳の壁を越えられなかった人は確かに存在しますが、乗り越えて抽象的な思考力を育んだ人もまた多く存在します。被告側の発言で問題なのは、「聴覚障害者の成長は9歳で頭打ちする」と言い切って例外を認めない姿勢にあると思われます。賠償額を減らす言い訳にしても、とても賛同できるものとは言えません。
死亡した女子児童の両親は、乳児期から早期教室へ通い、小学校も電車を乗り継ぐほど遠い生野聴覚支援学校を選択するなど、将来を開くために尽力してきました。親の愛と英才教育に応えた女子児童は、既に9歳の壁を越えていたことでしょう。
聴覚障害の弁護士が出廷
何はともあれ被告側の主張は、「障害者は健常者の4割程度の価値しかない」と言っているようなもので、到底看過は出来ません。公営社団法人の「大阪聴力障害者協会」は、5月27日に急遽署名活動を開始し、たった数日で目標の1万件を上回る署名を集めました。
第7回となる法廷には原告側の弁護団から聴覚障害を持つ弁護士が2人(うち1人は女子児童より重度)出廷しました。手話以外にも機器やアプリなどあらゆる手段でコミュニケーションを取る弁護士を見て、女子児童の父親は時代の進歩を実感したそうです。
「どうせ9歳児程度の知能」と見くびっていた聴覚障害者から弁護士が出てきたのを見て、被告側はどう感じたでしょうか。9歳の壁どころか司法試験まで乗り越えた聴覚障害者が答弁する間、被告側は何を考えていたのでしょうか。
損害賠償として請求されているのは6100万円です。この数字にどれだけ近づけるかが、被告側の差別発言に対する司法の答えとなるでしょう。今後原告側は、被告側の保険会社が障害者採用について積極的な文言をホームページに載せていたことへの矛盾を突いていく方針です。
大阪府豊中市の前例
障害を持つ児童の逸失利益が争点となった訴訟には前例があります。2015年に大阪府豊中市の療育施設で自閉症の児童(6歳)が事故死し、その責任を療育施設に問う民事裁判が2年後に和解となりました。裁判は施設側が4500万円を支払う形で和解が成立しましたが、注目すべきはこの和解額に至るまでの経緯です。
被告である療育施設側は、死亡児童の逸失利益を約430万円と算出していました。根拠は障害年金からで、いわば「定職に就かず年金暮らし」を想定していたのです。ところが大阪地裁は、「発達状況から将来就職できる可能性はあった」として、全労働者の平均賃金を基準とした約1940万円を算定しました。「発達障害児なんぞ就職できる訳がない!」という主張を徹底的に捻り潰した格好となります。
障害を持つ児童の逸失利益を、障害者基準でなく全労働者基準で算出し、「障害者は就労できる」と示した点で非常に画期的な裁判でした。被告の主張が退けられた上に和解額も請求額の約7割(約6500万→約4500万円)となっており、限りなく勝訴に近い和解であったと言えます。
障害者同士の差別合戦
女子児童を死なせた運転手には「難治てんかん」という持病がありました。突然意識を失いかねない状態だったため車の運転をやめるよう医師に言われていたそうですが、虚偽の申告で強引に免許を取得し重機を操り続けていたのです。
てんかんは脳や神経の疾患ですが、病態・生活上のストレス・抗てんかん薬の副作用などによって精神症状も出やすく、法律上では精神障害として区別されています。この加害運転手の場合は隠してまで運転免許を優先しているので、障害者手帳は取っていないかもしれませんが。
障害者同士が差別合戦をする構図は、健常者が一方的に差別してくるよりも不毛です。例えば就労施設で身体障害者に対し「身体障害は需要あるから訓練要らないだろ」と嫌味を飛ばすなどです。この場合、言い出したのは保険会社の方ですが、「聴覚障害者VSてんかん患者」という不毛な構図を作りかねないので止めてもらいたいですね。
ただ、あまり被告側(雇用主や保険会社含む)を誹謗中傷しすぎると判決や和解額に響く恐れがあります。「社会的制裁を十分受けた」と判断されると被告への処分が甘くなってしまうので、過度な正義感は抑えて今後の進展を見守りましょう。
参考サイト
「障害あっても努力家だった娘の人生、なぜそんなに軽んじる」あまりに非道、「逸失利益は聞こえる人の40%」の被告側主張
https://jbpress.ismedia.jp
事故死の障害児、平均賃金で賠償額を算定
https://www.asahi.com
てんかんに伴う精神症状について|大阪大学医学部附属病院てんかんセンター
https://www.hosp.med.osaka-u.ac.jp
身体障害