「俺は教材か!?」16歳の車いす少年が語る「交流」への疑問
身体障害いつもながら昔話ですが、「小学生の集団に話しかけられたことがある」という訪日外国人の書き込みがありました。なんでも「英語の課外学習のつもりで、目に付いた欧米系に片っ端から声をかけているようだった」「担任に文句を言ったら『これも大事な教育なので』と聞く耳を持たなかった」そうで「まず一般の通行人を教材代わりにしないで欲しい」と苦言をていしています。これは礼儀の問題といえるでしょう。
これと似た話が最近出てきました。パラリンピックの開催前日「学校連携観戦プログラム」について私見を投稿した16歳の少年がいたのです。少年「ミウラタケヒロ」さんは先天性の心臓病から車椅子ユーザーとなり、特別支援学校に通っていました。そんな彼が語る「交流」への疑問を朝日新聞が取り上げています。
ところで、学校連携観戦はパラリンピックだけに適用された訳ではありません。確かにオリンピックの時は中止となりましたが、東京都外の競技場はその限りでなく、例えば茨城県鹿嶋市ではサッカーの予選を小学生らが見守っていました。
ある車椅子ユーザーの疑問
ミウラさんは先天性の心臓病により車椅子ユーザーとなった現在16歳の少年です。対応リスクを理由に地域の小学校から入学を拒まれ特別支援学校へ入りますが、途中で不登校となり中等部で中退しています。以後、自称「フリーランスのニート」として、乙武洋匡さんと対談してそれをまとめたり自らの障害について講演したりと活動を続けています。
そんな彼が「交流」へ疑問を投げかけるきっかけとなったのは、テレビで見たやり取りでした。パラリンピックの学校連携観戦にあたって、出演者の一人が「パラアスリートと子ども達が話す機会を設けて欲しい」と発言したのです。ミウラさんは直接番組を見ていませんが、番組内容をまとめたツイートから知りました。
「小学生の頃、地域の小学校の校長に『君がうちの生徒と交流してくれたら、学ぶことがたくさんあります。触れ合いを大切にしたいので、ぜひまた来てください』と言われた。誰と交流するかは自分で決めるし僕は教材じゃないし触れ合い移動動物園でもないです」
確かに肢体や視覚の(知的をあわせ持たない)障害者は外見の分かりやすさもあって学校の講演ではよく呼ばれますし、現にミウラさんも講演の依頼を受け出席した経験があります。しかし小学校時代の交流となると話は違ってくるでしょう。
支援級の児童を通常級の教室に入れるように、支援校の児童を通常校の校舎に入れて児童どうし触れ合わせる狙いのようです。合う人には合うでしょうが、合わない人にはとことん合わなさそうです。学校自体を移動するとなっては「移動動物園」と揶揄したくもなるでしょう。リスクを理由に入学を拒否しておいて一瞬の交流だけは歓迎する態度もミウラさんには腹立たしかったであろうと思います。
更にミウラさんは「話す機会が必要と感じるなら、なぜ健常児と障害児を分けて教育するのか。大人の都合で分断しておいて交流が必要などと意味不明だ」と続け、通常校の態度を批判しました。分けることそのものは教育やカリキュラムの進度に大きな差があるので致し方ないと思いますが。
ミウラさんの母親も「お互いが見ている景色を知る制度になれていない。健常児が支援学校を訪れることがあってもいいのに」と、支援校ばかりがビジターとなる体制に苦言をていしています。
それは共生といえるのか
普段別世界として隔離しておきながら、一瞬同じ空間にいただけで「共生社会について勉強になった!」と自信に満ちるのもおかしな話です。そもそも支援から通常への「交流」は、往々にして関わる健常児が固定化されやすいものです。
以前のコラムでも何度か書いていますが、支援級の児童(生徒)を通常級に同席させてもクラスメイトの全てが関わるわけではなく、寧ろ低スクールカーストの健常児にそれとなく押し付けられる傾向が強いです。高スクールカーストはのらりくらりとかわし、低スクールカーストにしわ寄せが行く構図は経験した人も多いでしょう。
「交流」しているのは一部のクラスメイトだけで、大半のクラスメイトには別世界の出来事となっている状況は、とても「共生社会」と呼べるものではありません。そもそも、はみ出し者に面倒事を押し付ける構図がまかり通ったままの「交流」は、果たして「教育」と呼ぶに値するでしょうか。
ミウラさんのように知的を伴わない障害であれば、事情も少しは変わってくるでしょうが「正式なクラスメイト」でなければやはり低スクールカーストに「お世話係」を押し付けて済ませることになると思います。
結果、大半のクラスメイトは障害者への想像力など育たないまま大人になります。通常級から支援級・支援校へ訪問する取り組みも作って双方向性を持たせた方が幾らか良いでしょう。もっとも、支援へのビジターさえ低スクールカーストに押し付けるようでは何の意味もありませんが。
交流自体を反対する声
支援級の児童(生徒)と実際に接していれば障害者について分かるようになるかというと、必ずしもそうとは言い切れません。むしろ、至近距離で接するからこそ生まれる軋轢が偏見として一生残る事さえあるのです。
例えば、叩いてきたり突然抱き着いたりされるなどトラブルが起きて、本人だけに怒ればいいものを障害者全体まで主語を拡げて「昔障害児からこういう目に遭った、だから障害者はダメだ」となるケースです。言うなれば障害者恐怖症ですが、同様の経験を持つ人は多く、共有されやすい気がします。
偏見を持つだけなら自由ですが、それを不幸自慢という形で発信して傷の舐め合いで共有されると、そのエネルギーを外で爆発させやしないか心配になりますよね。「どうせ障害者として生きるなら愛想よくしろ」「愛想のよくない障害者は嫌われ差別されても当然だ」という品行方正至上主義も関わってきそうです。
支援の子と「仲良くしましょう」を強制するのも無理があるとは思いますが、障害者の看板を少年時代の未熟な1人に押し付けて「これだから障害者はダメなんだ!」と喚くのも違う気がします。結局「交流」を「教育」たらしめるのは、見る大人の集団マネジメント能力に因るところが大きいのではないでしょうか。
参考サイト
パラ学校観戦は「ふれあい動物園?」車いす少年の違和感
https://news.yahoo.co.jp
東京五輪、学校連携プログラムで小学生ら現地観戦
https://www.kyoiku-press.com
身体障害