処罰感情に寄り添い私刑を容認…“性犯罪への名裁き”と呼ばれたミーガン法の呆れた実態
処罰感情とは一時の感情の昂りに過ぎず、これに寄り添って物を決めると後で必ず裏切られ梯子を外されます。ゆえに中長期的な目線で物事を考えるならば、目の前を一瞬で横切るだけの処罰感情など抜きにせねばなりません。
向こう数十年は残り続ける「法律」を、もし一時の感情で決めてしまったらどのようなことが起こるでしょうか。しばしば“性犯罪への名裁き”として持て囃されているアメリカの「ミーガン法」は、まさに処罰感情の赴くまま制定された法律として、最も有名なモデルケースとなっています。
ミーガン法とは、性犯罪の受刑者に烙印代わりのGPSを仕込み、今後の行き先を特定できるようにする法律です。性犯罪の再発防止を謳っており、類似の法律を盛り込んでいる国や州は他にもあります。しかし、名裁きとされるミーガン法には、再発防止どころか別の治安悪化リスクを高めている呆れた実態が隠されていました。
悲しみのはけ口にされた州法
1994年、ニュージャージー州でミーガンという7歳の女児が殺害される事件が起こりました。犯人は隣に住む男で、複数の性犯罪歴を持っていたことが後に明らかとなります。ミーガンの母親はこれを知って、性犯罪歴持ちを監視する法律の制定を求め運動を起こしました。
性犯罪歴を持つ者を監視するための法律は、被害女児の名前から「ミーガン法」と名付けられ、ニュージャージー州で産声を上げます。更に2年後、ミーガン法は連邦法としても制定されるようになり、アメリカ全土に適用されるようになりました。
ちなみに、アメリカ国内だけでも似た州法が幾つか存在します。テキサス州の「テキサス版ミーガン法」や、フロリダ州の「ジェシカ法」などがあり、死刑もあり得るほど厳しい量刑の州法も少なくありません。一方で、カンザス州では同性愛にも適用するよう求められたのが違憲とされた出来事もあります。閑話休題。
ミーガン法には(ジェシカ法もそうですが)、被害者の親があげた悲しみの声に多くの人が呼応してきた歴史があります。いくら甚大な理不尽を被り悲憤を抱えていても、一人きりで法律を動かす力などありませんが、多くの人間が“推進力”として関わってくれば話は別です。そして、その“推進力”となったのは義憤による処罰感情に過ぎず、中長期的な目線など存在しません。
性被害者の遺族が立法に働きかけたこと、性犯罪者を半永久的に監視すること、これらの点からミーガン法はしばしば「名裁き」「最高の法律」と持て囃されています。ただ、表向きに期待されていた「再犯率の減少」については全くと言っていいほど貢献できていないのが実態です。
“名裁き”の実像
ミーガン法より前に類似の情報開示をしていたワシントン州について、ある調査では「再犯率は以前と変わらなかった。しかし、再犯までの期間だけは短くなった」と報告されています。再犯率が増えも減りもしないのであれば、ミーガン法は毒にも薬にもならない無意味な存在に過ぎません。しかし、再犯までの期間が縮まる背景に迫ると、無意味なほうがマシとすら思える実態が明らかになってきます。
アメリカ連邦司法省の一部門が元受刑者を対象に調査したところによると、「住居を追い出されたり入居を拒否されたりした」「脅迫や嫌がらせを受けた」「コミュニティから仲間外れにされた」「職を失った」など、何らかの嫌がらせや不遇をほとんどの人が受けていました。住居も職も友人関係もない人間に社会復帰など出来る訳がないことは誰にでも分かる事でしょう。
なぜそうなるかと言うと、元受刑者の居住地が知らされるからです。近隣に性犯罪の前科持ちが住んでいるとなると、気が気でなくなるのが人情です。何としても町から出て行ってもらいたくなるのも無理からぬことでしょう。「自分ひとり拒んだところで、どうせ誰かが受け入れるだろう」という甘えを全員が抱けば、そこに居場所はありません。再犯へのスパンが短くなるのも、これが原因です。
何処からも受け入れられない元受刑者は、やがて人里離れた辺鄙な場所にある元受刑者だけのコミュニティに身を寄せるといいます。それは、存在すら認知したくない人間を山奥の施設に閉じ込めるのとどう違うのでしょうか。
拒むだけなら兎も角、積極的に私刑を与えようとする者も現れるでしょう。私刑の横行はすなわち、治安の悪化であり、法治国家として最大の恥辱でもあります。しかし、それを説いたところで「性犯罪者は自己責任だから」と“加害者”は取り合わないでしょう。現に「二重処罰の禁止」「事後法の禁止」で(アメリカの)憲法に反するのではないかという指摘に、連邦最高裁が「刑事罰を科されている訳ではないから」として合憲の判断を下しています。
被害を受けるのは元受刑者本人やその家族に留まらず、赤の他人にまで及ぶことがあります。実は登録される情報は常に正確とは限らず、情報の更新が遅れていたり嘘の情報が登録されていたりすることがあります。そうなると、「元受刑者の住所」と信じて無関係な他人の家を襲撃する者も現れかねないでしょう。その後“加害者”が自分のしたことを棚に上げて、「情報の管理が悪い!」「元受刑者が悪い!」「そもそも性犯罪が悪い!」と無責任な言い訳をするであろうことは想像に難くありません。
他にも以下のような疑問や問題点が噴出しており、すべて放置されたままです。
「家庭内の性暴力だと逆に通報や告発がしにくくなるのではないか」
「容疑の否認を煽り、ただでさえ証拠の乏しい性犯罪の立件が難しくなる」
「貧しいコミュニティに元受刑者が集中し、貧富格差の増大に繋がる」
「そもそも家族や教師といった身近な大人の性加害が多いという事実を忘れていないか」
「元受刑者の危険度はどのように判断するのか。正当性のある判断は出来るのか」
「ミーガン法のような事後策にコストを割くより、同じコストで事前の予防策を固めた方が効率的ではないか」
元受刑者の住所と思い込んで放火し、無関係の子どもを死に至らしめた事件が実際にあったそうです。その“放火殺人犯”もやはり「性犯罪者が居なければ自分は放火などしなかった」と思い込んでいるのでしょうか。私刑を認め無用な争いを招き、時に無辜の住民すら巻き込む殺伐とした世界。これをもたらしたのは他でもない、“ニュージャージーの名裁き”と称されるミーガン法と、その流れを汲む州法たちです。そして、犯罪が露見しない周到な性加害者や、嘘の情報で出し抜く悪賢い元受刑者といった、知恵や権力を備えた悪人には何ら脅威にもなりません。
本当に性犯罪について考えたのか
後の禍根にしかならない法案をエモーショナルに通す愚行がなぜ簡単に出来たのかと言うと、やはり「性犯罪者」を標的としていたからに他なりません。やはり処罰感情を満たして“消費”するにあたって、性犯罪者ほど優れた素材は無いのでしょう。世直しごっこを咎められたり叱られたりしても、「性犯罪の擁護者」「性犯罪者予備軍」のレッテル貼りでもしておけばいい、気楽で甘ったれた趣味です。
ミーガン法に関する山のような問題点も、真剣に考えることは無いでしょう。「性犯罪者への刑罰が不十分だから私刑はやむを得ない」「そもそも性犯罪を起こさなければよかっただけのこと、自己責任」「この名裁きに異を唱えるのは性犯罪者だけ」「性犯罪者が自殺するのなら、それこそ万々歳」と、多種多様な言い訳ばかりが容易に予想できます。
そして、ミーガン法の暗部も知らずに日本への輸入を望む人々のなんと多い事でしょうか。類似のジェシカ法に関する記事では、ジェシカが如何に惨たらしく殺されたか、犯人の筆舌に尽くしがたい鬼畜ぶり、そして日本の性犯罪に対する甘さが切々と綴られています。記事では「初犯だと無罪か、たいてい執行猶予がつく。そして、一般人にもどって、日常生活を取り戻す。学校や会社にも多くの場合、普通に復帰して、前と同じように通う。まわりも『よかったな』と、なぐさめてくれる」と義憤たっぷりに書かれており、なるほど処罰感情に忠実な人間への受けがよさそうな文章に仕上がっています。
こういう人々が性犯罪の根絶を真剣に考えていると言えるでしょうか?寧ろ、気軽に呵責なく叩ける性犯罪者がいなくなると困る側の人間ではないでしょうか。自覚はしていないでしょうけれども、性犯罪者叩きを生きる活力としているならば、性犯罪の減少は逆に困る筈です。しかし、性犯罪が起これば被害者も必ず出るので、発生を大っぴらに望むなどもってのほかでしょう。
「被害者のない性犯罪」を発生させるという難問。その答えは、性犯罪や性加害者の定義を広げて多くの人を偏見と不寛容の網で捕らえることでした。自分が気に入らない広告を環境型セクハラなどと造語で非難し、特定の層を性犯罪者の予備軍として差別を煽り、反対やお叱りの声には人格否定で蓋をします。
話はだいぶ逸れましたが、処罰感情の赴くまま生まれた法律は本来の目的に貢献しないどころか、新たな“加害者”だけを作り差別や迫害を公認するだけの劇毒に過ぎないということです。そして、立法に関わった“義憤の戦士たち”は、方々で起こった暴力や断絶の責任を取ることもありません。
処罰感情が一瞬のものなら、ミーガン法を連邦法規模にするまで2年間も伴走しないという反論はあるかもしれません。しかし、あれは被害者遺族の人生に“伴走”していると言えるでしょうか。大切な肉親などを理不尽に失った悲憤は、やがて「あいつが居なければ」「警察がしっかりしていれば」「国や法律が整っていれば」という強烈な憎悪となります。その先にあるのは復讐と呼ぶのも烏滸がましい、ただの八つ当たり。八つ当たりに協力するのは、人生への伴走ではなく、ただ暴動へ加担しているに過ぎません。
本気で被害者遺族の人生に伴走するつもりならば、グリーフケアを第一に考え、不毛な復讐行為は絶対に止めるものです。悲憤からの八つ当たりに加担するのは支援ではありません。ただ理由を見つけて暴動を起こしているだけです。
許されない対案
一応、ミーガン法への対案と呼べそうなものは用意しています。いずれも理知的で文化的な答えと呼べるものですが、かの者たちは絶対に賛同しないでしょう。それでも説明します。
まず、こちらの記事からの引用です。
「社会に危険を及ぼす可能性が高い前科者の情報をコミュニティに告知することがどうしても必要だというなら、告知をきっかけとして当人が住居や職を奪われないような法的保護が必要だし、もし彼らが不当な脅迫やヘイト・クライムを受けた場合には社会としてきちんと対処するという事が必要になります。他にも、当人が希望するならコミュニティと前科者が対話できる状態をセットアップするなりして、情報告知によるデメリットを相殺するくらい社会復帰をできる限り支援する必要があります」
要約すると「出口支援も整えなさい」ということです。当然、それには税金などのリソースを割かねばならないでしょう。性犯罪の前科を持つ者が社会復帰することに、税金が使われるのを首肯するでしょうか。記事の筆者もすぐ後にこう書いています。「現在の社会情勢を考えるにおそらくそういう形にはならないでしょう」
もう一つは、國學院大學の教授が研究成果の報告として提出した文章(リンク先は下に)です。GPS型電子監視の有効性を、外国の事例などから広範にリサーチして「性犯罪者の再犯防止効果はない」と結論付けており、ミーガン法に反対の立場と言えます。
そこには二度も同じ内容が書かれていました。「対象者の抱えている貧困・孤立・教育レベルの問題といったことが解決されないと再犯を防止することができないということであり、電子監視はそういった問題を解決する力がない」「対象者の抱えている貧困・孤立・教育レベルの問題といったことが解決されないと、性犯罪の再犯を防止することができないということである」
貧困や孤立や教育格差といった、根本的な問題を解決せねばならないというメッセージ。言い換えれば、性犯罪の前科持ちに「いいもの」を与えるということです。たとえマイナスをゼロに戻して再出発の基盤にするという意味の提言であったとしても、やはり肯定はされないでしょうね。
なぜこうも悲観的なことばかり書いているかと言いますと、ミーガン法を賛同しそうな人々の口汚さと頑固さを幾度となく見てきたからです。施設コンフリクトと同様、自分の意に沿う結果でなければ決して納得せず、対話は期待できません。エモーショナルな暴走で法まで捻じ曲げられるのは御免ですが、それを止めるだけの力が無いのが現実です。
参考サイト
ミーガン法のまとめ@macska dot org
http://macska.org
止まらない特別視と具体的制度 その問題点 ミーガン法に関して
https://note.com
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GPSテクノロジーを利用した犯罪者監視システムの我が国への導入可能性の検証(PDF)
https://kaken.nii.ac.jp