「初詣&真の心」 佐久間勇人の2018年自由日記 vol.1
『佐久間勇人の2018年自由日記 』vol.1 <毎月30日連載>
初詣
1月2日初詣に出かけた。場所は上野東照宮。徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜が祀られている。上野へは今年で3年連続だ。初詣には毎年、同じ友人と出向く。もう25回目だ。周りからはよく飽きないねぇ、とあきれられている。出会って25年。ずっと何をするのにも一緒だった。会わない日が一か月と間が開いたことが無い。自分でも驚きだ。居て当たり前、居ないと逆に違和感を覚えるだろう。
その彼とは学生時代同じテニス部でコンビを組んでいた。だから、悪友・親友・心友である。いつどんな時も彼になら何でも話せるし、お互いに何でも知っている。彼の存在は私の人生においてかけがえないものだ。あっ別に変な感情を抱いているわけではないです笑。
まぁ、25年前と基本やっていること・楽しんでいることは変わっていないのだなと思った。しかし、変ったことといえば、私の身体の状態だ。数年前から杖歩行になり、今年は初めて車椅子での参拝となった。車椅子での参拝には、何のためらいも、迷いもなかった。車椅子になった当初はどうしても周りの目が気になり、メンタル面で負けていた。しかし今の私は違う。経験も積み、様々な人と出会い、感謝し、人間的に大きくなったし、人の痛みのわかる人間に少しはなれた気がするからだ。
楽しみに上野に出向いた。いつものように御賽銭を投げ入れ、おみくじをすることを。しかし、それは叶わなかった。願っていたわけではない、当たり前だと思っていたことが、出来なかった。
祈願するところには階段があり、車椅子では登れない。断念。バリアフリーマップというのは有った。分かりやすく出来ていて、境内の中を移動する道は示されている。しかし、私は移動したいのではない。お賽銭をし、祈願し、おみくじをしたいだけだった。しかし、肝心の場所に入るためには階段があって、それが出来ない。まるで、仕来りに拒まれているみたいだった。
初詣に来た意味があるのか?という、この悲しさ。でも、半端ない人混みの中を来たんだ。ただでは負けぬ。来た意味を作らねばと思い、上野動物園に行くことにした。パンダの赤ちゃん「シャンシャン」見物の当然抽選も当たっているわけでもない。ただただ人だかりだった。夕方になり、寒さもまし動物たちもどんどん小屋の中に入っていく中、まだ観られる動物を探し回って檻を覗き込む私たちがいた。でもそれが心地よかった。お賽銭もせず、祈願もせず、おみくじすらしないで、結局、男2人で動物園。こんな年もあってもつまらなくない。何も出来なかった初詣、話のネタにはなった。
来年以降は車椅子でもお賽銭、祈願おみくじのできる、万人を拒まない、神社やお寺を探そう。みんなもそれがしたいはず。そんな風に思う、2018年1月2日だった。
真の心
1月23日。大雪警報が4年ぶりに発せられた。4年前もこんなことあったかな?と思いながらテレビをずっと見ていた。電車、バス、タクシーそして飛行場と、間隔無く人、人、人の行列。雪対策の弱い首都圏と、どこのチャンネルでも同じような事を伝えている。確か4年前は2週間連続雪だった。そのような番組を観ながら、私は、「ふっ」と思った。
今の俺は何をしていても、何が起きても同じなんだ。ベッドからトイレに行くのも大変で行動に移すのが重い自分がいる。結局、何が起きても、やれることは限られる。何が起きても変わらない。居ても居なくても変わらないとさえ思えてくる。考えることは色々と出来るから余計にそんなようなことを考えてしまう。本当に悲しくなる。
これから先、もっともっと病状は進行してくる。どうなっていくのかな?一人になり、色々と考える時間が出来るとマイナスな事しか考えないなんて、悲しいね。普段の俺は強がっているだけなのか?自分でもわからなくなる。いくら強がっていても、実際に一人になると色々考えちゃうんだ。こんなこと書いたらダメなんだろうけど、強がっていても、寂しい時は寂しい。怖い時は怖い。普通の人間だ。このままの状態で明日を迎えるのではダメってことはわかっている。でも、一人になると考えない方が不自然だよ。
誰でも同じ立場なら考えると思う。考えない方がおかしい。自分の無力さを。自分の事もろくにできないのに人の心を動かせるだろうか。鼓舞できるだろうか。でもわかっていて欲しい。俺だって一人の人間なんだし、落ちることもあるし、悲しくなることもある。でもまだ、悲しみよりも、微かに上回っている「人生は一度きりだし」、「時間は誰だって平等に有限」、「私は私」という思い。だから自分の思いを伝えたい。また明日から明るく楽しく、後悔しない様に生活していこう。
俺を一人にするなよ。貴方も一人じゃない。