社会の無理解や生涯の苦しみも、全ては感謝の対象(『発達障がい~神からの贈り物~』第23回)
『発達障がい ~神からの贈り物~』 第23回 <毎月10日連載>
ふとあるとき、昔のことを思い出した。私にとっては鬱になったきっかけである子どもとの突然の別れはいまだ心の苦しみそのものである。しかし、そういうものとようやく向き合えつつあるのかもしれない。
ある日、私はマンションで一人、数少ない休日のくつろぎ時間、飼っていたインコを鳥かごからだし部屋の中を自由に飛ばしていた。何かの用事で部屋を離れ10分ほど経っただろうころに部屋に戻るとそのインコがいない。どこに行ったのかとマンション中を探すも見当たらない。これはどうし たことかと考えていたところ、放していた部屋の窓が開いていた。レースのカーテンが閉じられていて窓が開いていることに気づかなかったのだ。ベランダに出て探したが見つかることもなく、しかし『もしかして』という思いでもう一度マンションの中を探す。諦めかけたころ、元の部屋に戻るとそのインコが何もなかったかのように私のほうに飛んできた。
私はたまらず涙が出てきた。もう会えないかもしれないと諦めかけていたとき、そんなときに当たり前のように飛んできてくれたから。いや、もしかすると一度は外に出て、はじめてみる景色に驚いて帰ってきたのかもしれない。何はともあれ、当たり前にいてくれる鳥をこんなに愛おしく思えたのはそのときが初めてだった。
当たり前の毎日に感謝を、なんて普段考えることがあるだろうか?
きっと、何か困ったことがあって、そして当たり前の日常の大切さが身に染みるのではないだろうか?言い換えれば、困ったことが当たり前のありがたみを教えてくれるのかもしれない。
釈迦も『病気に感謝しなさい』と諭しているのだとか。病気になることで日ごろの健康に感謝でき、普段を生活を省みるきっかけを与えてくれるのだとか。やはり、困ったことが教えてくれることを言い換えているように思う。
誰しも心の中に大きな傷の一つはあるだろう。しかし、それを辛いと思えている環境自体が幸せだと言えないだろうか?争いを経験するから平穏に感謝できる。寂しい思いをするから人に優しくなれる。辛い過去があるから前を向ける。私にとって欝や障害の苦しみは同じようなものかもしれない。その苦しみがあるから自分にとって何が大切であるかを常に諭してくれる。
実は、この原稿をしたためながら、私の最も重い苦しみを告白しようと思っていた。先ほど書きかけて消してしまった。きっと今それを話すときではないように感じたから。しかし、その苦しみがあるから毎日を省みることができるのかもしれない。例えるなら、真っ暗闇の海の中に自分の居場所を教えてくれる灯台のようなもの、そんな表現が最も近いように思う。
今回の原稿は、 まとまりのない、放送原稿などを手がけてきた元ライターとしては大変にお粗末なものでお許しいただきたい。しかしこれが今の私自身の等身大であり、私自身の現在地です。苦しいことを苦しいと思えること自体が今の私には幸せなことであると自身に言い聞かせている私がここにいます。
すみません。今回はこのあたりで…