私と障害との今まで

unsplash-logo Fernando @cferdo

初めてコラムを書くのでとりあえずは私の過去を振り返って、少しでも私自身の障害について自己理解を深めようと思い書かせて頂きました。少し話が長いですが、よろしくお願いします。

私、障害を気にせず幼少期を過ごす

私は幼い頃に軽度の自閉症と診断されました。両親は私の障害に理解を示してくれましたが、なるべく私を普通の子に育てようとしていたみたいです。

幼稚園の頃は、私を含めた大抵の子がまだ物の分別が付いておらず、自分勝手に過ごしていた子も多かったです。そのため私の障害の影響は殆ど感じられず、人間関係の構築に困ることもありませんでした。

小学生に進学して、低学年の頃は授業中にハンカチを振り回したり、周りの空気が読めずに人間関係に支障をきたす事が起こるようになりましたが、高学年になってから小学校の環境に慣れてきたのか、自分なりに学校での生活を楽しめていたと思っています。

中学生で健常者に、そして挫折

中学校に進学する時に私の転機が訪れました、両親から障害者手帳を手放さないかと相談が持ち掛けられたのです。その時の私の自閉症に対する両親の認識は、少し人付き合いが苦手という点を除けば至って健常者と変わらない子という認識で、健常者としても十分独り立ちすることが出来ると考えていました。私自身もその時は自分が障害者であるという意識を強く持っておらず、確かに自分は少し空気が読めない部分もあるが、それも私の個性として受け入れようと考えていたのと、私自身が中学校という新しい環境に対して前向きに物事を見ていたのもあり、私は中学生で一度障害者手帳を手放すことにしました。

障害者としてではなく、健常者として中学校生活を送ろうとした時の私は、友達を増やそうと普段より明るく活発的にコミュニケーションを取ろうとしていました。ですが、空気が読めないという私の個性は、積極的にコミュニケーションを行うには非常に良くない方向に働く事が多く、相手に勘違いをさせてしまったり、私の伝えたい事が上手く伝えきれなかったり等の要因が重なり、またもや私の人間関係は破綻してしまいます。破綻した人間関係のストレスは私の大きな負担となり、学力テストの成績が落ち込んでそれが更にストレスとなる…と積み重ねられたストレスが負のループを形成され、最終的に中学校にいっても苦痛しか感じられなくなった私は、家に引きこもってしまうことになりました。

不登校になって私に起きた変化

両親は家に引きこもった私を中学校に行かせようと頑張りましたが、その時の私の意思が相当硬かったのもあり、中学三年になるまで私は家に引きこもって過ごす事になります。

家に引きこもってから私の性格は大幅に変わってしまい、基本的に物事を後ろ向きにしか見れなくなって環境の変化を強く拒むようになり、人と関わる事が嫌になって孤独であることを好むようになりました。しかし、環境を変えず、孤独であろうとしても無情にも時間は経過していきます。その度に自分の将来を想像してしまい、そこから来る焦りなどから私の精神は更に不安定になってしまって、物に八つ当たりをしたり、奇声を上げたりなどの行動を起こしてしまうようになりました。そんな行動を見かねた両親と激しく衝突する事も少なくなく、私がまともに自分の将来を考えるようになるのは中学三年の夏休みが過ぎた頃まで時間が飛びます。

中学三年で生まれた転機

中学三年の頃には両親との衝突やカウンセリング、数少ない友人が様子を見に来てくれたりなどもあって私の精神はある程度安定するようになりました。物事に対して大雑把な視点を持てるようになったのもあり、少し心に余裕を持つ事が出来るようになったのです。

「今の状態ならば学校にまた登校する事が出来るかもしれない」と両親は私に午前だけでも学校に通わないか?と提案されました、私の中学校には不登校児専用の教室みたいな場所があったので、そこに登校しないか?というお話でした。その話を最初に聞いた時の私は「前向きに検討したいと思う」と曖昧な感じの対応で、いずれかはしないといけない事だと分かっていましたが、少し抵抗感が残った状態でした。

そんな状態から、私が再登校しようと考えたキッカケは祖父の死でした。祖父は引きこもっていた私に対して特に否定することもなく接してくれた数少ない人で、その時の私の印象では「どうしても畏まってしまうが割と接しやすい人」と感じていました。祖父が死んだ時の両親や親戚は悲しんでいましたが、私は虚無感を感じていました。しかし、祖父の死という事実を徐々に理解すると、その虚無感は「今も祖父は私を見ているのだから、進まないと」という使命感に変わり、その使命感は私が再登校を行うことに繋がりました。

私の再登校は図書館から始まり、読書の合間に担当の先生と勉強をするという段階から進めました。慣れてきたら専用の教室で同じ不登校の人と、高校受験の為の勉強に取り組みました。専用の教室では人間関係に不安を抱いていましたが幸いにも私の知り合いの方もその教室に通っていたので安定して通うことができました。高校進学については二年半も引きこもっていた事が内申点に影響してしまい、私の学力も殆ど付け焼刃同然の状況もあって進学できる高校の候補は二つしかありませんでした。しかし、努力の甲斐もあり何とか進学することができました。

新しい環境での生活と定まってなかった進路

私の進学した高校は二年生から自分でカリキュラムを組む昼夜間の単位制で、制服の指定も無く私服でも問題ない緩い高校だったので比較的通い易かったのが特徴です。高校という新しい環境での私は、中学での経験も相まって人見知りが激しく、休み時間などは人の居ない教室で過ごしたり、放課後に図書館で読書をしたりなど中学の頃と比べると大人しくしていた事が多かったなと今でも思います。しかし、高校でも友達との関係は上手くいかず、高校の友達とのトラブルを担任の先生に間に入ってもらい、結果的にその友達との関係を断ってしまうなど苦い思い出も無かった訳ではありませんでした。

高校生になると進路について色々と考えなければいけない時期になっていきます、当初の私は自閉症という障害を抜きにしても現在の自分のコミュニケーション能力で就職を行うのは無理があると考え、とりあえず消去法で大学の進学を考えていました。進学を考えたまでは良かったのですが、その時の私は自分が何の仕事をしたいかについて全く興味を抱いていなかったので進学先の学校を探す基準が無く、見学に行っても私が行きたいと思える学校は見つかりませんでした。

就職も進学も決まらず、自分の進路が中途半端になって立ち往生していた時に私の父が、インターネットで就労移行支援事業所の広告を見つけた事で話は進みます。

進路が定まって、私は障害者になった

就労移行支援事業所は障害を持った人が就職に必要なスキルや知識を身に着けていく場所で、就職に自信が無かった私にとっては非常にありがたい環境でした。しかし、私が就労移行支援事業所に行くには一つ問題がありました。それは、その時の私は健常者として扱われている事でした。

就労移行に入る条件の内に障害者手帳が必要だったのですが、私は中学生の頃に障害者手帳を手放しているので再度障害者手帳を手に入れる必要があったのです。正直、私はもう一度障害者手帳を手に入れる事に関していえば凄く悩みました。仕方がないのは理解しているのですが、一度障害者手帳を手放しておいてまた障害者手帳を手に入れるのは虫が良すぎるのではないか?と世の中のルールを都合良く利用している感覚が拭えなかったのです。だけど高校から就職できる程の能力や自身が無く、かといってやりたいことを実現するために進学したい大学や専門学校があるかと言えばそれも無かった私には、就労移行という環境は今後の選択を先に延ばす事になりますが、私にはマッチしていたのです。そこからの行動はこれまでの中途半端さから見違えるように早く、障害者手帳を手に入れる為に病院で診断や手続きを行って、障害者手帳を手に入れたら次は就労移行に入る為の手続きをして、就労移行に入る前に体験で実際にその就労移行に行ってその場の空気やカリキュラムを体感して、これだけの段階を踏んで今の私は就労移行にいます。

まとめ

自信が無く未熟ではある私ですが、今の私は色々な人の支えや少なくない失敗、そして自閉症という私の個性から形作られているのだと思っています。現在は就労移行で就職に関する事に勉強をしていますが、いつかは私の過去に自信が持てるようにこれからも無理をせずに頑張ろうと思います。

これで私の障害を絡めた過去の話は以上です、長い話になってしまいましたがここまで見て下さりありがとうございます。

ナポリタン

ナポリタン

現在は就職を目指して就労移行に通っています。好きな食べ物はカップ麺系統で大抵昼食に食べています。

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