不寛容の権化「排除アート」を知っているか

Photo by Frank Dohl on Unsplash

「江ノ電自転車ニキ」についてご存知でしょうか。いわゆる撮り鉄の間で撮影スポットとなっていた場所で偶然自転車を走らせていたため、写真に写りこんでしまった男性です。陽気に片手を揚げた男性ですが、撮り鉄らから詰め寄られ罵倒される憂き目にあいました。

あの電車の写真に混入した彼のような人間を予め追い出しておける工夫が、21世紀の街づくりで頻繁に行われていました。景観や治安の為と称して長居できないようにする人払いの工夫がオブジェとして街に埋め込まれているケースが21世紀に入って急増したのです。

代表的なのが「横になれないベンチ」です。間仕切りをつけたり太い筒をベンチと称したりして、横になるどころか座ることすら苦痛になるよう作られたベンチが都市部にはあります。

これらは「排除アート」と呼ばれています。ただ「邪な目的で作られたオブジェをアートと呼ぶな」という意見も根強く、英語圏での「Hostile Architecture(敵対的建築)」などの呼び名も提案されています。

排除アートの目的として最も多いのが、路上生活者の一掃です。横になれる場所を街から消すことで路上生活者が寄り付かないようにする狙いがあります。これだけ聞くと残虐性どころか合理性すら感じて賛同する御仁もいそうです。しかし、排除アートで作られたオブジェは非常時に何の役にも立ちません。

外で急に体調を崩したときや災害に見舞われたとき、困窮者を追い出すために作られた排除アートは容赦なく牙をむきます。困っている人を等しく排除するオブジェにこそ、存在意義を厳しく問わねばなりません。

仕切られたベンチ

2021年4月、座面が突起で仕切られたベンチの画像がTwitterに投稿され「バンクシーが嫌がらせで置いていくような代物」とこき下ろされていました。リプライ(返信)には「何が悪いのか分からない」という内容もありましたが、ベンチの突起が意味するところを理解したコメントも寄せられています。「熱中症になっても(突起でデコボコして)横になって休めない」という説明があれば辛うじて理解はできるでしょうか。

このツイートにはベンチを製作した田中元子さんも反応しており「最後の最後まで『いじわる突起』に抵抗しました」と説明しています。当初は突起のないベンチを製作していたのですが、依頼主であるビルオーナーから「ホームレスやスケボーの対策に突起をつけろ」と命令されてしまいました。仮に意地を通したところで別の業者が依頼を受けて突起のあるベンチを作るだけです。

田中さんはわずかな突起で済ませようとしますが、納得が得られず結局5cmの突起で座面が仕切られました。設計担当者がせめてもの抵抗として、突起に動かしたり外したりできる仕掛けを施しましたが、批判ツイートが話題になるまで一度も使われなかったそうです。

批判ツイートをきっかけにビルオーナーは突起を動かすことを許可しましたが、“試験的”かつ“2か月間だけ”という条件付きでした。期間中は突起を動かしてテーブルのように出来ていたそうですが、今はまた座面の仕切りに戻っていることでしょう。

多様なる排除アート

東北大学大学院教授で建築史家の五十嵐太郎さんは、90年代後半から既にホームレスを締め出してオブジェで埋める動きがあったと指摘しています。アートの皮を被っている以上、珍しいモニュメント程度の呑気なニュースとして取り上げられることさえあります。しかし、排除される側の視点に立てば、物言わず鎮座しながらも残酷な意図を剥き出しにしていることがわかります。

ベンチひとつとっても排除アートは多種多様となっており、座る以外の利用を認めないどころか座る目的すら果たせなさそうな代物まで出ています。五十嵐さんも青山のビル前で太い円筒をドーナツ状に曲げたような「ベンチ」を見かけ「(排除アートは)いよいよ次のステージへ到達した」と感じたそうです。

排除アートは抗議や炎上を恐れ明白に排除の対象や目的を語りませんが、露骨な排除を伴う場合もあります。愛知万博の時はホームレスの多い場所からテントを一掃し、跡地に植物を植えて立ち入れなくするケースがありました。ロサンゼルスでも生活困窮者の多い場所ではスプリンクラーが定期的に作動し、路上生活者が居着かないように徹底されています。

全ての通行人が排除の対象

冒頭に挙げた「江ノ電自転車ニキ」へ一旦話を戻しますが、そもそも彼は何故罵声を浴びせられたのでしょうか。理由はごく単純に「被写体に入り込んでいたから」です。彼の性別も年齢も出身国も職業も乗り物も一挙手一投足さえも関係ありません。撮り鉄にとっては被写体に混ざったものは皆平等に邪魔なのです。

排除アートとして鎮座するベンチと称したオブジェらも同様で、ベンチとして利用し座って休もうとする人間は皆平等に邪魔者扱いです。本音では長居してもらいたくない依頼主が、目的を叶えてくれるクリエイターやアーティストに依頼して作らせたものたちです。

外せる突起ベンチを製作した田中さんは「疲れ果てても座るところがなく、植え込みに座る人や棒立ちで弁当を食べる人がいます。そもそもベンチがないということは、私たち全てが都市から排除されているのです」とベンチの意義を訴えます。確かに、通行人には「通行」以外の行動は何一つ求められていません。

五十嵐さんはこう語ります。「特定の人を排除するベンチは、誰にとっても優しくないベンチです。それは非常時に我々へ牙をむき、気分が悪くなった時でも横になれず災害時は更に困るでしょう。他者を排除し続けた都市は誰にとっても厳しい都市になります」

ユニバーサルデザインの逆を行く誰にとっても厳しい都市は、ある意味では平等といえるかもしれません。しかし、人そのものが居着かないようにするアーキテクチャに存在意義はあるのでしょうか。

想像力なきネット民たち

映画監督の早川由美子さんは、ある大学教授(五十嵐さんとは別)から「あなたの撮った『ホームレス排除ベンチ』の写真を授業で使わせてくださいませんか」と頼まれ快諾しました。後日、その教授は授業の様子を早川さんにこう報告します。

「反ユニバーサルデザインの例として紹介したところ、学生からは『ホームレスがいなくなれば多くの人が安心できるから良いと思う』『多くの人が公平に座れるよう工夫された画期的なデザイン』と想定外の答えが多く出ました」

この顛末をTwitterで報告した早川さんには排除アートに憤る声が寄せられた一方、ホームレスの不要さについて熱弁を振るう者も一部存在しました。世間知らずの学生たちと同様に、災害や体調不良などで横たわる場所が必要になるかもしれないという想像力が欠落しています。

このように「自己責任論」を振りかざし排除を正当化する声が、街にはびこる排除アートを受けいれてきました。そうでなくても「なぜそこまで排除する必要があるのか」「誰がそこまで排除を求めているのか」に思いいたらず、排除アートをなあなあで受け止めてきています。

特定の層を排除する構造は、結果的に万人にとって不寛容なものとなります。そのまた逆も然りで、特定の層に向けた思いやりの構造はいずれ多くの人にとって便利なものとなります。それがバリアフリーやユニバーサルデザインの持つ可能性でもあります。

参考サイト

巧妙化する「排除アート」 誰にもやさしくない都市が牙をむく時
https://withnews.jp

排除アートと過防備都市の誕生。不寛容をめぐるアートとデザイン
https://bijutsutecho.com

「排除ベンチ」抵抗した制作者が突起に仕込んだ「せめてもの思い」
https://withnews.jp

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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