「ひきこもり人権宣言」を圧縮してみた

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Photo by Shalom de León on Unsplash

2021年末に「暴力的『ひきこもり支援』施設問題を考える会」が発表した「ひきこもり人権宣言」は、引きこもりの当事者や経験者らが集う同会によって熟成された問いかけでした。

この宣言は解説含め35,000字にも及び、最終形に至るまで2年ほどを要しました。その結果、宣言を補佐するはずの解説に大切な内容が集中しているようにも感じられます。今回はこの宣言を圧縮し、少しでも多くの人に分かりやすく「ひきこもり人権宣言」を届けたいと思います。

宣言

「ひきこもり」という行為は、己の命と尊厳を守る権利の行使であって、それ自体が悪行ではありません。むしろ、引きこもり状態に追い込んだ複合的な社会的要因こそが悪なのです。長年続く差別と抑圧を引きこもり当事者の手で終わらせるため、ここに引きこもりの人権宣言を行います。

この宣言にあたり、引き出し屋の存在に触れねばなりません。引き出し屋は支援と称し、当事者の意思を無視して自分の管理下へ置こうとする業者で、彼らが原因と思われる自殺や餓死の報道もあります。引き出し屋に代表される暴力によって、引きこもり当事者の人権は一方的に奪われ続けたままです。

被害者らの無念を想起しつつ、時に遠回りしながらも自分らしい生き方に向かって歩むリカバリーを求めます。自立とは誰にも頼らないことではなく、逆に依存先を増やすことです。

各条文の補足

第1条「ひきこもる権利(自由権)」
引きこもりとは、防衛の手段・権利としてそうせざるを得なくなった人でもあり、引きこもる権利の保障は当人の命や尊厳を守ることに繋がります。そして、その権利を行使することは引きこもりに至らしめた社会的な背景を炙り出し、解決するよう働きかける効果があります。人権とて無制限でなく折衝や調整を要することはありますが、そうであれば尚更家族や社会に傾聴の姿勢が求められます。

第2条「平等権」
メディアは長きにわたって、引きこもりへの差別や偏見を生み助長する表現を続けてきました。不平等を放置していては引きこもり支援は成熟しません。年齢で区切る不平等をなくすだけでなく、引きこもり状態から脱した経験者も困難に寄り添い当事者と平等に考えていく必要があります。

第3条「幸福追求権」
幸福を追求するにあたって、自己決定権は決して欠かすことのできないものです。基本的人権にも自己決定権は含まれており、その重要性は憲法からも立証されています。

第4条「ひきこもる人の生存権」
引きこもりの家庭は高齢化と経済困窮を抱えており、生存権を保証するには生活への支援が欠かせません。よって、引きこもり当事者のQOLそのものを上げていくことが生存権を保証すると考えます。引きこもり当事者が社会参加するための給付が、家族の負担を減らし当事者のリカバリーを促進します。

第5条「支援・治療を選ぶ権利」
患者が医師から説明を受けたうえで治療を選択できるように、引きこもり支援においても十分な説明のうえで選択できるようにするべきです。中には、支援や治療を受けない選択や、引きこもったままでも生き抜ける支援も必要になるでしょう。
例えば、ファイナンシャル支援の観点では「仮に就職できたとしても、残りの年数から考えると総合的な資金状況はあまり改善しない。少しずつでも社会復帰できて、その延長線上で就労できれば御の字ぐらいの心構えでいた方が、本人も家族も焦らずに済む」といわれています。

第6条「暴力を拒否する権利」
本来の説得は暴力を伴わない平和的な交渉方法として知られていますが、引きこもり支援における説得とは相手を連れ出す都合のいい手段として解釈されており、自宅への侵入や長時間の軟禁といった暴力が必ずセットで付いてきます。会うこと自体に大きな負担を感じる引きこもり当事者にとって、アポなし訪問や長時間の声掛けといった「暴力」は当然に拒否できる筈です。

第7条「頼る権利」
自立とは依存先を増やすことであり、頼る行為を抜きに引きこもりの解決は成り立ちません。例えばアルコール依存症の自助グループでは、自分の力で人生をコントロールしようとするのではなく、他人などに頼ることを回復の柱とします。同様に、引きこもり当事者や家族もまた、内面化された自己責任論をかなぐり捨てて、頼ることを始めなくてはいけません。
とはいえ、頼る権利は頼れる社会であることが前提です。依存先を増やすのが当事者次第となれば、弱さを曝け出し助けを求める義務を個人に求める新たな自己責任論となってしまいます。個人の資質を順応させるのではなく、社会自体が頼れるものへ変わっていくのが頼る権利の実現に欠かせないことです。

解説1:ひきこもることは、命と尊厳を守る権利の行使

「ひきこもり人権宣言」が目指したのは2つのこと、引きこもりにも人権があることの明確化と、人権擁護に必要な措置を社会に求めることです。

「ひきこもり人権宣言」は、新たな権利の生成プロセスにおける最初の段階「権利の要求行動」にあたります。そこから、人権を保護すべきと社会が広く共有・承認し、法による実質的な人権保護が与えられることを望みます。

解説2:ひきこもり状態に至らせた背景こそが悪

引きこもりは本人に原因があるという個人モデルの横行で、引き出し屋をはじめとする人権侵害が許容されてきました。しかし、引きこもりの原因に差別・いじめ・ハラスメントなど社会の不合理が関わっていることは少なくありません。なんでも個人の問題と放り出すのではなく、「社会によって引きこもらされている」という観点を持ち社会モデルで向き合っていくべきです。

家族が抱える世代間連鎖の影響もあります。家族全体の問題を引きこもりという形で背負わされているのであれば、当事者だけでなく家族を含めた支援を考えねばなりません。とはいえ、引きこもりは社会・家族・当事者の要因が複雑に絡み合って起こっており、これらを考慮に入れねばなりません。当事者の動けなさや立場から考えれば、変わるべきは社会や家族からとなるでしょう。

引きこもり支援すなわち就労支援と捉えられがちですが、実際は家族関係やメンタルヘルスなど就労以前のステージに多くの支援を要します。多様な当事者ニーズや家族関係の改善などから、当事者は社会や家族に改善を求める主体でなくてはいけません。とはいえ、「引きこもりは悪」という価値観が染みついた家庭では声を上げることすら難しいです。親の変化を待っていては、子は老います。親が変わらなくても前進できるように、当事者の主権を認めるための行動を社会全体で考えていかねばなりません。

引きこもりについて考えるならば、自己責任論の蔓延に目を向けねばなりません。誰にも頼らない自己責任だからこそ引きこもり状態である以上、その脱出にあたっては、他人や社会に頼ることが許されねばなりません。ところが、自己責任論はそれを阻害し、足を引っ張り続けているのです。

解説3:差別と抑圧の歴史をひきこもり当事者の力で終わらせる

引きこもりは引きこもりであるがゆえに、TV番組などで偏見や差別を助長されたり、支援を謳う暴力的な業者によって連れ去られたりと、長年抑圧の憂き目に遭ってきました。抑圧の中では基本的な自由や人権も自己肯定感もなく放置され、当事者は社会からの罵詈雑言を内面化し自責・自罰に縛られてきました。

抑圧については、まず当事者の立場から理解し、抑圧という視点から問題を構造的に分析することで解決に向けていくことが求められます。

解説5:一方的に奪われるひきこもりの権利

(解説4は引き出し屋の紹介としてネット記事のリンクを貼っているだけなので飛ばします。)

引きこもり当事者の人権を擁護する仕組みはありません。医療保護入院ですら必要な手続きがあるというのに、民間の支援業者は説得だけで連れ出してしまいます。引きこもり当事者の人権は、一方的に奪われるままです。

アメリカの精神病棟では、連邦法や州法で権利擁護について厳しく定められており、日本でもそれに倣ってか入院患者が「代弁者」を立てられる仕組みについて提起されました。それらに該当しない引きこもり当事者を手続きなしで連れ出す支援業者は、人権侵害の度合いが大きいといえます。権利を擁護する代弁者やシステムの確立は必須でしょう。

解説6:リカバリーについて

ひとくちにリカバリーといっても内容は多義的で、ここでは「当事者ごとに異なる価値観を基軸とした支援や治療の過程」を主観的リカバリーとしています。一人暮らしや就労などの客観的なリカバリーは、成果が目に見えて分かりやすいぶん、支援側も画一的なアプローチに甘えがちとなります。

本当のリカバリーとは、たとえ遠回りや失敗をしながらでも自分らしい生き方に向けて歩いていくことです。自分にとって幸せで豊かな生活が出来ていると自覚できればリカバリーが進んだといえるでしょう。そうした観点に沿う支援が今後は求められていくはずです。

解説7:自立とは、依存先を増やすこと

引きこもり状態を脱するのに必要なことは、誰かに頼る事なのですが、蔓延する自己責任論の内面化によって阻害され続けてきました。実際の自立とは、多くに依存しながら『自分は何にも依存していない』と感じられる状態です。

かつて身体障害者は、己を健常者に近づける訓練を強いられ、さもなくば病院や施設に押し留められる存在でした。しかし、自立生活運動の勃興とバリアフリーの浸透が進み、自立する機会は大きく増えています。引きこもり当事者もそれに倣うには、まずは依存先と権利を確立せねばなりません。

頼るもののない人間に残された最後の手段が引きこもりです。引きこもってきた年月は、厳しい現実の中を懸命に生き抜いてきた証です。頼ることが許される社会が現実性を帯びるため、引きこもり当事者や家庭の絶望を皆で分かち合う時が来たのではないかと考えています。自立とは依存先を増やすこと、希望とは絶望を分かち合うことです。

結び:加害性に向き合うことができるか

「ひきこもり人権宣言」のベースとなったのは「障害の社会モデル」です。これは「障害は個人の資質ではなく、社会が課したもの」とする考え方で、それに倣い引きこもる本人だけでなく家族や社会にも目を向けねばなりません。

未だに引きこもりを個人の問題と片付けるのであれば、引きこもりに対する「加害性」に気付くことはないでしょう。引き出し屋を称賛するメディア、それを消費する視聴者、引きこもる身内を恥として隠す家族、いずれも引きこもりへの嫌悪・蔑視感情の赴くまま表出された「加害性」です。引きこもり当事者にも家庭内暴力や経済負担といった「加害性」があるとするならば、自らの「加害性」についても省みるのが公平な姿勢ではないでしょうか。

引きこもる人々はしばしば、語られる対象として、責任を他から押し付けられる客体として抑圧されてきました。「ひきこもり人権宣言」は、引きこもり当事者の人権は奪われてはならないというだけでなく、自らの人生を引き受け主体的に生きるための権利を主張する宣言でもあるのです。

参考サイト

『ひきこもり人権宣言』|暴力的「ひきこもり支援」施設問題を考える会
https://note.com

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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