障害者の過去をたどる旅~盲目の革命家オットー・ヴァイト

出典:Toa Heftiba

「第2次世界大戦で起こった最大の悲劇」と呼ばれるホロコースト。ユダヤ人救出活動に身を投じたドイツ市民の中に、オットー・ヴァイトという視覚障害者がいました。社会的に弱い立場だったはずの彼が、どのようにユダヤ人を救ったのでしょうか?

はじめに

映画「シンドラーのリスト」により、ユダヤ人を救ったドイツ市民がいたことが日本でも知られるようになりましたが、実はオスカー・シンドラーのほかにも「ユダヤ人救援活動」を行った市民がいたことは、皆さまご存知でしょうか。

活動を行った市民の立場は様々でしたが、その活動家の中に、オットー・ヴァイトという1人の男性がいました。彼には、他の活動家と大きく異なる特徴がありました。

特徴の1つ目は、彼が視覚障害者であったこと。2つ目は、彼が救おうとしたユダヤ人の中に、障害を持つユダヤ人が大勢いたということです。

実はナチスはユダヤ人を虐殺する前に、T4作戦を進めていました。それはナチスが組織した専門機関が「生きるに値しない命」と判断した障害者の大量虐殺でしたが、この時代はナチスに限らず、優生学の考え方に影響を受けた国家が多く、障害者の強制断種手術は必要悪として受け入れられていたのです。

こうした事情から「わたしたちは生きるに値する、国家に貢献できる障害者だ!」と政府にアピールする障害者が多数だった中、ナチスに背いて救援活動をおこなったオットー・ヴァイトについて、お話したいと思います。

第1章 追い詰められる人々

まず、第2次大戦前のヨーロッパの状況を、簡単に説明します。ナチスが台頭する前から、ドイツだけでなくヨーロッパ全体にユダヤ人差別が根付いていました。宗教的価値観の違いや、社会で忌避されていた金融業にたずさわるユダヤ人が多く「額に汗して働かず、ずるくお金を稼いでいる」という偏見も、差別に拍車をかけました。

1933年4月に起きたユダヤ人排斥運動が、国家主導での迫害の始まりでした。迫害は凄まじい速度で進み、資格の剥奪(はくだつ)や財産の没収、公職からの追放、行動制限などがおこなわれました。1938年には、政府に扇動された民衆がユダヤ人に対し集団暴行や住居破壊などをおこなった「水晶の夜」と呼ばれる事件が起こります。

「このままでは命まで奪われるのではないか」と恐れたユダヤ人が多数国外に移住しました。しかし一家全員で逃げたくとも、家族の中に障害者がいれば、移住先から入国を断られるのがこの時代の常。

彼らには「家族全員祖国に残り、迫害を受け続けるか」「健常者の家族だけ移住するか」という残酷な選択が突きつけられたのです。

結果として、多くのユダヤ人障害者が国内に取り残されました。ただでさえ弱い立場にあった彼らは、実はドイツの障害者コミュニティーからも追放されており、自分達でお互いを支えあうしかありませんでした。

1941年3月、道路舗装などの肉体労働が主となる強制労働が、全てのユダヤ人に義務付けられました。障害者であっても労働から逃げることを許されず、多くのユダヤ人が長時間にわたる過酷な労働により、力尽きて死んでいったのです。

いつしか重労働に苦しめられるユダヤ人の間で、ある噂が広がり始めました。「オットー・ヴァイトが経営する盲人事業所が、ユダヤ人にとてもよくしてくれる」と。

第2章 「革命家」オットー・ヴァイト

それでは、この物語の主役であるオットー・ヴァイトについてお話ししましょう。

オットーはドイツ北部の貧しい家庭で生まれ、義務教育を終えた後は職人になりました。ところが、彼は賃金に不満が有ったために他の労働者を扇動し、2度の暴動を起こしてすぐ解雇されてしまったのです。

後にユダヤ人救援活動について語った時、オットーは自らを革命家と称しました。「労働者に正当な賃金を獲得する権利を!」と革命のような暴動を起こしたオットー。彼にとって救援活動は、彼らに正当な人権を取り戻すための「革命」だったのかもしれませんね。

40歳を過ぎたころ、オットーの視力は急に悪くなり始めました。そしてついに、ぼんやりと物の形が解る程度にしか見えなくなり、視覚障害者用の杖なしでは外出もできなくなってしまったのです。

それでもオットーは生きていくために、ほうきとブラシの職人になるための訓練を受けました。職人として収入をえられるようになると、妻エルゼと共にほうきとブラシを制作する盲人作業所を作ることにしました。

第2次世界大戦が始まるとすぐに、オットーは「戦争遂行に必要な企業の認可」をえるために、あらゆる手段を使いました。認可されれば、材料の仕入れも労働者の雇用も、優先的にしてもらえたからです。

認可が下りると、オットーは早速ユダヤ人の視覚障害者をどんどん雇い、さらに職人養成コースも設置。このことから「未経験でも、技術を身に付けられる機会を設けたい」という彼の願いが手に取るように分かります。

養成コースを経て雇用された従業員の中には、1章でもお話した、海外亡命した家族から取り残されたものも多くいました。

「ユダヤ人によくしてくれる盲人作業所」の噂を聞きつけ、強制労働で身体を壊したユダヤ人達が、次々にオットーを頼ってくるようになりました。しかし、彼の作業所は視覚障害者のための作業所であり、健常者を雇う許可は与えられていません。

自分を頼ってきた者を無下にできなかったオットーは、ユダヤ人健常者を雇うため、ユダヤ人中央管理局に交渉することにしました。交渉した後、盲人作業所はユダヤ人健常者も雇用する権利をえたのでした。

作業所に最初にやってきたユダヤ人健常者はアリス・リヒトといい、アリスはオットーの秘書を任されることになりました。やがてオットーはアリスに対し友情を感じはじめ、彼女もユダヤ人である自分に親切にしてくれるオットーを、強く慕うようになりました。

ユダヤ人従業員はナチスの政策のために困窮し、常に空腹の状態にありました。そのため、オットーは何度も食料を取り寄せて分け与えたり、豪勢な肉料理を作って「さあ子供たち、たくさんお食べ!」とふるまいました。

数十人もの従業員を雇用していたといわれる、オットーの事業所。しかしそれだけの人件費や食料にかかった経費などを、1人で捻出するのはどう考えても不可能です。

実は多くの協力者がオットーの活動に関わっており、協力者の中には、娼婦などナチスから反社会分子とみなされたものが、多く存在しました。さらにに驚くべきことには、救援活動者の中には当事者であるユダヤ人もいたのです。

例えば、ユダヤ人協力者の1人であるハンス・ローゼンタルは、ドイツ・ユダヤ協会という組織の職員であり、そこで知った機密情報をオットーに流していました。

ユダヤ人を雇用することがオットーらの主な活動でしたが、ユダヤ人の強制収容所への移送が始まると、潜伏生活支援へと活動内容が変化していったのです。

第3章 アリスを守りたい

やがてナチスはユダヤ人を絶滅させるために、東方の収容所への強制移送を始めました。やがてオットーの作業所にも、移送命令書が届いた従業員が、ぽつぽつと現れ始めたのです。

ある時アルフレート・レヴィというユダヤ人視覚障害者が、移送命令書を震える手に持ち、作業所に出勤してきました。その時にはオットーがすぐに手をまわし、アルフレートの移送を取り消してしまいました。

また別の時には「ゲシュタポのトラックが作業所に乗りつけ、ユダヤ人視覚障害者を全員連れ去る」という事件も起きました。この時も連れ去りに抗議していたオットーが障害者用の杖を片手に外に飛び出して行き、賄賂を含む交渉をおこない、無事に全員を救出したのでした。

しかし次第に、連行されたユダヤ人達を連れ戻すことができなくなり、オットーは1942年には13人もの従業員を失ってしまいます。

そこでオットーは、残されたユダヤ人従業員を守るために、潜伏生活をさせることに決めました。アンネ・フランク一家が「離れ家」に隠れたように、彼らにも隠れ家を用意することにしたのです。

潜伏させた従業員のなかでオットーが一番案じたのは、秘書のアリスでした。1人娘のアリスは両親を見捨てることができず、両親も一緒にかくまって欲しいと訴えたのです。

1つの隠れ家に潜伏する人数が多くなれば、その分見つかるリスクは高くなります。しかし結局、オットーはアリスの友人としてその気持ちを尊重し、一家全員をかくまうことにしたのでした。

実はこのケースは、救う側と救われる側との間に、深い友情があったことを示す1例でもあります。

強制移送が激化すると、オットーに「密かにユダヤ人をかくまっている」と疑いがかかり始めますが、彼も自分が危うい立場にいることを分かっていました。家宅捜索が入っても潜伏したユダヤ人たちが見つからないよう、彼と協力者は緻密な打ち合わせを行い、何度も捜索の危機を乗り越えたのでした。

しかし1943年2月、工場や作業所に勤めているユダヤ人を根こそぎ連行する「工場作戦」により、その日作業所に出勤していたユダヤ人従業員は全員連行されてしまいました。

さらに追い打ちをかけるように、同年10月、ゲシュタポにより作業所に対し捜索がおこなわれました。アリス一家を含む潜伏したユダヤ人たちが全員、連行されてしまったのです。

家宅捜索の数日後、オットーを心配して彼の家を訪れた従業員によると「その時の彼は、打ちのめされた老人にしか見えなかった」と言います。

救援活動も最早ここまでかと思われましたが、オットーはどん底から立ち上がりました。彼は「自分に出来ることがまだあるかも知れない」と知恵を絞り始めたのです。

オットーは多額の賄賂を使い、アリス一家をアウシュヴィッツの強制収容所ではなく、テレジエンシュタットのゲットー(ユダヤ人の強制収容住宅)に送ることに成功。その後1年以上、オットーは食料や衣服などの物資を、テレジエンシュタットに大量に送り続けました。この救援物資によりアリス一家はもちろん、テレジエンシュタットに収容されていた元従業員など、多くの人が生きのびたのです。

しかし1944年5月、オットーはアリス一家がビルケナウ強制収容所へ送られることを、アリスから送られた葉書によって知ります。ここでもオットーはへこたれずに、ビルケナウへ作業所の製品を売り込む手紙を送ったり、ついには作業所の営業マンとして現地に乗り込みました。

収容所の前で、一日中オットーは機会をうかがっていましたが、とうとうアリスに会うことはかないませんでした。

その後もオットーはアリスの消息を調べ続け、ついに彼女が、クリスティアンシュタットの収容所にいることを突き止めます。彼は現地に出かけ、収容所で働いているポーランド人と接触すると、彼にアリスへの手紙と物資を渡してくれるよう依頼しました。

アリスの手に無事荷物が渡ったことを知ったオットーは、クリスティアンシュタットの近くに部屋を探し始めました。何か月分もの賃料を前払いし、部屋の中には現金と着替えを用意しました。

「収容所から逃げる機会があれば、この部屋に隠れなさい」と記した手紙と部屋の鍵を添えた包みが、再びオットーからポーランド人労働者を経て、アリスに渡されます。

1945年始め、アリスに運が巡ってきました。敗戦が濃厚となっていたこのころ、連合軍などを恐れたナチスの将校たちによる、収容者を徒歩でドイツ勢力圏内に移動させる「死の行進」が、あちこちで始まったのです。

行進から逃げることに成功したアリスは、必死の思いで隠れ家にたどりつきました。その後、彼女は命からがらベルリンに戻り、オットーとエルゼの自宅に隠れて終戦を迎えることになります。

オットーは、大切な親友の命を守ることができたのでした。

エピローグ 弱きものと、もっと弱きもの

オットーや彼の協力者が守ろうとしたユダヤ人の多くは、この世を去ってしまいました。アリスの両親は2人ともビルケナウで命を落とし、テレジエンシュタットに収容されていた元従業員の1人は、ダッハウに移送された後に亡くなりました。

その一方で、オットーの証言によると、彼らの活動によって命を救うことができたユダヤ人は27人だったということです。

オットーが終戦まで守ったアリスは、1946年にアメリカに旅立ちました。ナチス政権が誕生したとき、まだ16歳の少女だった彼女は、終戦時29歳になっていました。家族、友人、楽しく過ごすはずだった青春……多くを奪われた彼女には、ドイツに対して、もう何の希望も見いだせなかったのです。

アメリカに移住したアリスは、ユダヤ系アメリカ人の男性と縁あって結婚しました。1947年に、彼女に一枚の写真が郵送されてきました。送り主はオットー・ヴァイト。

盲導犬を連れた彼が写った写真の裏には、このような言葉が書かれていました。

「1940年から1947年までに起きた事は一体なんだったのだろう?もしあなたが自分の心にそう問いかけたくなったとき、この写真をそばに置いて、語りかけてみてください。私には強いきずなで結ばれた友が居た。もう2度と出会えない、最良の友が」

写真を見て、アリスは何か思うところがあったのでしょうか。そして、写真に語りかけることはあったのでしょうか。それを知っているのは、彼女ただひとりだけでしょう。

さて、オットーは終戦後どうしていたのでしょうか。実は終戦からおよそ2年間、アメリカ駐留軍の助けを借りつつ、彼はユダヤ人のための老人ホームと孤児院の再建に奮闘していました。ホロコーストを運よく生き延びられても、家族も家も失った高齢者と子供たちがたくさんいたのです。

「地獄を生きぬいた子供たちに、小さな楽園を」「人生を漂流することになった高齢者に、安心できる最後の岸辺を」と願ったオットーでしたが、物資不足が続く敗戦国ドイツで、施設の運営は困難を極めました。

オットーがなぜ戦後もユダヤ人のために尽力し続けたのか、理由は明らかになっていません。しかし、かつてユダヤ人に対する救援活動を行った人々の中には、救うことができた命より、救えなかった命に対する後悔が強く残った人が少なくありませんでした。

27人を救うことができても、それよりずっと多くの人々を失ったオットー。老人ホームや孤児院の再建は、自分を頼ってきた人々を全て守れなかった、後悔の気持ちから始まったのかも知れません。

オットーが多く雇用したユダヤ人障害者たちは、障害者として差別されユダヤ人として迫害され、二重に苦しめられていました。つらい境遇に立たされた彼らにとって、盲人作業所は労働者としての誇りを感じられる、最後の心の砦でした。

ユダヤ人健常者にとっても、健常者でも雇用できるようとり計らい、潜伏生活まで世話してくれたオットーの存在は、心の支えとなっていたことでしょう。

他方、オットーにとってもユダヤ人は「ただ気の毒な人々」ではありませんでした。彼を心から慕ってくれるユダヤ人達は、視覚障害を持ち社会的弱者である彼に彼に「自分はたしかに頼りにされている」と自信を与えてくれる存在だったのです。

弱い立場の者が、さらに弱い立場のものを助けようとする。それがオットーと協力者たちが成しえた偉業でした。

今を生きる私たちに、オットーと同じことができるでしょうか。自分がどれほど苦しい立場であっても、それよりももっと苦境にある人々に、迷いなく救いの手を差し伸べられるでしょうか。

「革命家」オットー・ヴァイトは1947年12月、心臓病でその生涯を終えました。享年64歳でした。


岡 典子著、『ナチスにあらがった障害者 盲人オットー・ヴァイトのユダヤ人救援』明石書店、2020年

【やさしいホロコースト史】
http://www.hecjpn.org/index.html

【クリスタル・ナハト】
https://encyclopedia.ushmm.org/ja

オランプ

オランプ

長年にわたってうつ病で苦しみながらも病気を隠して働き続け、40歳になる前にやっと病気をオープンにして就労したものの生きることのしんどさや職場でのトラブルは軽減されず。実はうつ病の裏に隠れていたものはADHDであり、更に気が付けばうつ病も病名が双極性障害に変化。これだけ色々発覚したので、そろそろ一周回って面白い才能の1つでも発見されないかなーと思っているお気楽なアラフォー。
実は自分自身をモデルにして小説を書いてみたいけど勇気がない。

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