「世界一幸せな死刑囚」ことジョー・アレディ~冤罪の知的障害者を巡る昔話~

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Photo by Spencer Tamichi on Unsplash

「世界一幸せな死刑囚(The Happiest Man On Death Row)」と呼ばれた男がいました。彼の名はジョー・アレディといい、冤罪で死刑判決を受け執行された知的障害者の中ではそこそこ名の知れた存在です。ただ、有名とまではいきません。日本語版ウィキペディアにページが存在しないのが大きな原因ではないでしょうか。

彼が「世界一幸せな死刑囚」と呼ばれるようになったのは、看守や他の囚人から楽しそうに見えたからです。ジョーは自身が冤罪で死刑囚になったことを理解していないように見えたそうですが、実際に彼が何処まで理解していたのかは知りようがありません。ただ、ジョーが人間扱いされたのは刑務所が最初で最後だったことは確かです。

ジョーにまつわる出来事は、今から90年近く前の話です。しかし現代に至ってもなお、障害者を供述弱者として食い物にする輩が息を潜めています。より弱い人間を搾取することでしか生きられない“弱者”というのは、いつの時代も変わりません。(例えばこれとか)

施設を飛び出し放浪

アメリカはコロラド州のプエブロ。1915年4月29日にジョー・アレディはこの地で生を享けました。ジョーは知的障害を持ち、人生の大半を施設で過ごしたといいます。後に検査されたところによると、IQは46で精神年齢は5~6歳程度、具体的には5より大きい数が分からないといったところでした。

ジョーの障害は施設の中でも重く、他児童から度々いじめを受けていました。加えて、当時の障害者施設は現代と比べ物にならないほど低レベルです。1936年、21歳の時にジョーは施設を出て一人放浪を始めました。当時の施設に出所や卒業といった概念があったのか疑わしいので、「逃げ出した」といった方が適切かもしれません。

その年の夏、放浪の末に隣のワイオミング州へ辿り着いたジョーは、駅構内で不審者として逮捕されました。奇しくも地元のプエブロで凶悪な殺人事件が起こっており、隣の州も含めて厳戒態勢が敷かれていたのです。

ジョーが捕まる10日ほど前、プエブロの民家で留守番をしていた姉妹が暴漢に襲われる事件がありました。姉ドロシーは性的暴行の末に殺害され、妹バーバラも重傷を負う大惨事です。とはいえ、ジョーにとっては全く関係のない事件でした。しかし、ある刑事によって無関係の二者は強引に結ばれ、ジョーの行く末も決まってしまったのです。

冤罪刑事

取り調べを担当したのはジョージ・J・キャロル保安官。かつてプエブロのギャングを一掃した実績を持つ英雄でしたが、この時は何を思ったのかジョーを犯人に仕立て上げようとします。この行動の背景は、ギャング一掃で時の人となった栄誉が忘れられず、凶悪犯を捕まえた実績が欲しかったからではないかといわれています。

そのような憶測が立つのも無理はありません。既に第一容疑者としてフランク・アギィラーという男が捕まっていたのです。フランクの自宅からは凶器とされる斧が押収され、被害者の父親から解雇を言い渡された腹いせという動機もありました。既に解決目前の事件へ何らかの形で貢献したいという功名心が、ジョージ保安官を禁じ手へと駆り立てた、そんな見方も十分に可能だった訳です。

冤罪を着せる決め手は今も昔も変わらず、思い通りの「自白」を引き出すことです。5~6歳程度の知能しかないジョーに対し、ジョージ保安官は厳しい尋問や雑多な質問でもって応じました。出来上がった調書によると、保安官の簡素な質問にジョーが「はい」か「いいえ」で答えるような、およそ証拠とはなり得ないやり取りだったそうですが、それでも自白を絞り出しさえすればよかった訳です。

裁判では、事件の生き残りかつ唯一の目撃者である妹バーバラが、フランクを指して「この男にやられた」と証言しました。真犯人のフランクには証拠も動機も揃っており、言い逃れは出来ません。しかし、あろうことかフランクは「ジョーも共犯だった」「ドロシーを殺したのはジョーだ」と無関係のジョーを巻き添えにし始めます。やけっぱちになったのか、道連れが欲しくなったのか、いずれにせよフランクの大暴れによってジョーの立場は不利となり、ジョーはフランク共々死刑判決を受けました。ジョーの犯行を示す証拠は専ら自白だけで、客観的な証拠は終ぞ見つかりませんでした。

肝心のジョーは、自分が裁判にかけられていることも死刑判決がかかっていることも理解していませんでした。法廷という厳粛な場所でのやり取りは、ジョーにとってあまりにも難解だったのです。裁判中は弁護士のペンケースを電車に見立てて遊んですらいました。理解の及ばぬうちに冤罪で死刑判決を受けたジョーは、死刑囚としてコロラド州刑務所へ移送されます。逮捕から1年後、1937年のことでした。

初めての人間扱い

コロラド州刑務所の看守ロイ・ベストは、体罰も厭わない厳格な“鬼看守”。その上ジョーは冤罪とはいえ、囚人内のカーストでは最下層になりがちな“性犯罪者”でした。しかしジョーを待っていたのは鬼看守のしごきでも囚人からの責め苦でもありません。ジョーが刑務所で受けたのは生まれて初めての「人間扱い」でした。ロイはジョーの様子を「子どものように嬉しそうだった。ずっと欲しかったもの、持てるとは思ってもいなかったものを持てたのだから」と後に振り返ります。

というのも、ジョーの純粋な性格と現状を理解していない様子に、ロイは「この男が自らの意志で大きな殺しをやるとは思えない」と気付いていました。弁護団を組織しての再審請求も何度かあり、中にはロイが自腹で雇った弁護士もいたそうです。しかし、何度再審請求をしても却下され続けてきました。

助命嘆願の支援者から送られたおもちゃで天真爛漫に遊ぶジョーの姿は、他の囚人たちを元気づけていました。ロイもジョーのことを友達として接するようになり、外出許可を出してまでクリスマスパーティーに招待したこともありました。アメリカの家庭においてクリスマスパーティーは非常に重要な儀式でもあり、アニメ「ブレンパワード」のローカライズに関する逸話などは日米の価値観のギャップが如実に表れた好例として挙げられるほどです。その大事な場に同席させるのですから、ジョーに対するロイの感情は極めて良いものであったと思われます。

一方で再審請求は通らず冤罪が覆ることのないまま、死刑の執行日が迫っていました。執行日はあのクリスマスパーティーから間もない、1939年の年明け。少なくとも当時のコロラド州には、死刑執行の前日に希望した食事を与える「最後の晩餐」という習慣があり、ジョーにも例外なくメニューが聞かれました。ジョーはアイスクリームを所望するのですが、半分だけ食べて残りは「あとで食べる」「冷凍庫に入れといて」と預けたそうです。明日死刑になることや最後の晩餐という習慣は勿論、そもそも自分が冤罪で刑務所に収監されていることすら理解していませんでした。

1939年1月6日、ジョーはガス室へ送られるのですが、やはりガス室がどういう部屋なのか分かっていない様子でした。これから死ぬのだと説かれると「ノーノ―、ジョーは死なないよ(No, No, Joe won’t die)」と返し、お気に入りだった電車のおもちゃを別の囚人へ預けたそうです。こうしてジョーの死刑は執行されました。ジョーの享年は23歳でした。

「世界一幸せな死刑囚」と最初に形容したのは、他ならぬロイでした。安心できる環境で幸せそうに見えたというのもそうですが、その中には様々な皮肉が込められていたという見方もあります。何も分からないまま死刑囚にされた悲哀であるとか、安心できる環境が刑務所しかなかったとかです。ロイは最後までジョーの潔白を信じ、人生最大の後悔はジョーを救えなかったことだと後年話していたそうです。

死後評価の変遷

ジョーは死後どのような評価を受けたのかというと、幾らかの変化がありました。当初は愚直に犯人として扱う意見が優勢で、冤罪の可能性を考える人間はごく僅かだったといいます。より過激な意見として「このように知的障害者は危険なのだから去勢すべき!」「せめて移植用に角膜を剥いでおけば、少しは世間様のお役に立った筈だ」など言われていたともありますが、さすがにこれは盛られた話かもしれません。

1970年代~90年代にかけて人権意識が高まっていく中で、ジョーの事件についても再評価が始まりました。当時の関係者への聞き込みや資料研究などで、ジョーに犯行が不可能であることが結論付けられ、冤罪で死刑となった事例として位置付けられるようになります。

再評価と名誉回復への機運が徐々に高まっていき、ジョーの死から70年以上経った2011年、州知事の名において死後恩赦が認められました。ジョーの冤罪は公的に証明され、墓も囚人向けの簡素なものから大理石に作り直されます。新しい墓石には「無実の男、ここに眠る」「2011年1月7日恩赦」と刻まれ、生前愛した列車のおもちゃが供えられています。

食い物にされる供述弱者、他にも

供述弱者、とりわけ知的障害者に自白を強要して冤罪を着せた事件は、冤罪と分かったかその疑惑があるだけでもそれなりの数があり、潜在的には数百や数千件あるのではないかといわれています。特にジョー・アレディと類似した事例はイギリスや日本でも起こっていました。

エヴァンス事件
1949年にイギリスで起こった冤罪事件です。ティモシー・ジョン・エヴァンスという男が妻子を殺害したとして逮捕されたのですが、彼もまた軽度知的障害と言語障害を持っており、警官に自白を誘導させられました。エヴァンスが刑死した後になって、同じアパートに住んでいたシリアルキラーのジョン・クリスティが真犯人だったと判明すると世論は紛糾。イギリスで死刑が廃止されるきっかけにまでなりました。

島田事件
1954年、6歳女児を誘拐し殺した容疑で島田成人(なりと)という男が逮捕・起訴され、死刑判決が下りました。島田もエヴァンスほどの軽度知的障害で、やはり警官の自白誘導がありました。こちらは真犯人について分かっておりません。担当警官の紅林麻雄は「冤罪王」と呼ばれるほどの悪徳警官で、あまりの素行の悪さから後に降格のうえ左遷という報いを受けました。

冤罪に走る理由は自白第一主義や迷宮入りへの忌避感などがあり、酷い場合は警察や検察のシナリオにそぐわない証拠が隠されさえもします。実際に滋賀の看護助手が冤罪で懲役刑となった事例では事故死の可能性を示唆する証拠が揉み消されていました。いずれにせよ供述弱者を思い通りに操って目的を達成したことにするのは「搾取」でしかなく、それ以外に解決の手段を持たない者らもまた“弱者”です。

参考サイト

知的障害を持った青年が冤罪で死刑となり「世界一ハッピーな死刑囚」と呼ばれるまでの悲劇の物語
https://karapaia.com

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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