「できません!」—「NO!」という勇気があなたをウツから守ります
仕事出典:http://www.photo-ac.com
私は、27歳のとき、躁うつ病を発症しました。以来、今の医学では完治のないこの病気と20年お付き合いしています。通信会社に入社して3年目、トレーニーと呼ばれる実習生の身分で、ニューヨーク(NY)の子会社へ1年間派遣されているときに発症。それはうつ状態から始まりました。その時のことをお話ししたいと思います。
夢のモントリオール出張
忘れもしないNY赴任日の3月1日、オフィスに挨拶に言ったとき、「夏にはモントリオール出張も待っている。楽しみにな」と上司から言われました。夢のNYから夢のモントリオール出張。すごく楽しみにしていました。
確か6月下旬ごろだったと思います。上司のSさんに呼ばれました。「モントリオール出張決まったぞ。1か月後で、シノさんと英語で5つのサービスを4時間プレゼンだ。1ヶ月あるからじっくり準備してほしい。私とK副社長が同行するからよろしく。」英語で4時間‥‥とはいえ、ベテランのシノさんと一緒にプレゼンだから心強い。2人で協力し合って1ヶ月じっくり準備しよう、そう思いました。
一転、悪夢の日々
「大変なことになったぞ、モントリオール」数日後、Sさんが私に言いました。「予定してた日がダメになったんで、先方から10日後に来てほしい、って言われたんだよ。まずいことにシノさんその日、他の出張入ってて行けないんだ。10日間で4時間のプレゼンお前ひとりでできるよう準備してくれ」「そんな無茶な‥‥」「K副社長が一人でやらせろって言ってるんだよ。やるしかない」
悪夢の日々が始まりました。英語版のMacのパワーポイントと格闘しながら資料作り。日本の本社の資料を流用したいところだが、Windows版で作成されていてそれができません。英語の資料をどっさり持って、それを読みながらの朝食・昼食・夕食。夜中の2時にオフィスの鍵を閉め、3時間後の朝5時には出社。シャワーを浴びて、寝たと思うともう朝の目覚ましが鳴り、家を出る。そんな生活でした。疲労困憊で寝不足。気が狂いそうでした。
紙袋にどっさり入った資料を携えた出張当日。モントリオールに着陸したとき、あれだけ楽しみにしていたはずの出張だったのに何の感動もありませんでした。
これはうつ病だった
出張が終わり帰国しました。「あの口の辛いK副社長が、プレゼン褒めてたよ」そう聞いたのはシノさんからでした。
成功したんだ—そう思いましたがプレゼンのことはよく覚えていません。出張報告を書くように言われましたが、日付とタイトルと報告者である自分の名前以上朝から晩まで一行として書けません。額には脂汗が浮かんでいました。出張報告に限らず何も手につきません。帰国後の私は覇気もなく、終始気分が鬱々とするようになりました。そして不思議なことを四六時中考えるようになりました。
「放送局に入社していればよかった」
私は就職の時、ずっとなりたかった放送局のディレクターという職を蹴って、一時の感情でこの通信会社に入りました。放送局に入社していればよかった。。放送局に入社していればよかった。。放送局に入社していればよかった。。強迫観念のようにそれは私を襲ってきました。
何かがおかしい。精神的に何かがおかしい。
偶然新聞で見つけた精神科のドクターの連絡先。とある休日その電話番号をプッシュしました。しどろもどろの電話に、ドクターは私の家にお越しください、とおっしゃいました。「Rye」というNY郊外の小さな駅でドクターは待っていました。
「電話の第一声を聞いて分かりました。あなたはうつ病です」
病気だったのか。だとすれば治るのか。ショックを受けた、というより、長い間忘れていた安堵の感が胸に広がりました。診察の後、私は会社に行けない日が増え、遂には何週間も行けなくなってしまいました。
2人で準備期間1ヶ月のプレゼンが、1人で準備期間10日間のプレゼンに。しかも英語でです。どう考えても無茶でした。できないことを無理矢理やり遂げてしまったのです。そのツケは高かったです。抑うつ状態となり、何も手がつかなくなり、強迫観念のように過去の後悔にさいなまれるようになりました。
「できません!」—「NO!」という勇気があのときあれば、うつ病という病に苦しめられることがなかっただろうに。
うつ病という代償を払ったモントリオール出張。4月から9月の上半期の評定で、病気と長期間の休業のため会社に損失を与えたということで、入社以来最低の評定結果となり、馬鹿をみたのはうつ病になるまで頑張った私でした。私のようにならないためにも、無理なことは引き受けない「No」という勇気も時には必要です。