学校ぐるみの“自閉しぐさ”は何故か許される
暮らしPhoto by James Cai on Unsplash
自閉スペクトラム(ASD)といえば、個人差はありますが、「ルール(自分ルール含め)へのこだわりが強い」「相手の視点に立ちにくい」「例外が起こるとパニックになる」といった特徴があり、これらの“自閉しぐさ”は定型ばかりの集団内では激しく嫌われる傾向にあります。
ただ、これはあくまで一個人の話。もし、集団ぐるみで露骨な“自閉しぐさ”をしていた時、それこそ一人のASDに対してやっていたようにハミ出し者扱い出来るでしょうか。そもそもそんな集団に会うのか疑問に思われるでしょうが、“自閉しぐさ”がつい出てしまう集団は存在します。それは学校現場です。
随分と昔になる中学1年の頃、ホームルームで校内用の名札が回収される出来事がありました。言われた通りに安全ピンの名札を副担任に提出したのですが、その日に別の教諭から「お前、なぜ名札をつけていない?」と責められて狼狽えた訳ですね。後で分かったのですが、あれは“予備の”名札を回収していただけで、今付けている名札を提出されるのは“想像していなかった”そうです。
学校側の“自閉しぐさ”、分かりますでしょうか。予備の名札を回収したいのなら、最初からそう説明すればいい筈なのに、生徒たちは理解しているという“勝手な思い込み”と“相手視点の欠如”から説明不足を起こしました。そのくせ、今付けている名札を外す様子を見てもなお止める気配はなく、後で名札なし状態を責められました。これは“ルールへのこだわりが強い”にあたりますが、同時に“感覚の鋭さと鈍さに凸凹がある”点も分かります。単にこだわりが強いだけなら、名札を外しだした時点で止めますからね。
これを学校現場ではなく、ただの一個人がやっていたとしたら、その人は間違いなく白眼視され明日から居場所を失う筈です。複数の教師だからこそ、“自閉しぐさ”が許されたに過ぎないのですが、そのマンパワーに左右され過ぎです。
学校ぐるみの“自閉しぐさ”で極端な例が、1990年に起こった「校門圧死事件」です。これは校門の門扉と柱に頭を挟まれ高校1年の女子生徒が亡くなった事件で、校則至上主義に疑問を抱かせるきっかけにもなりました。この事件の原因は、始業時間への“こだわりの強さ”という単純なものでした。事件以前にもヒヤリハット事案はあったようですが、それでも生活指導たちが咎められることはなく、やがて大惨事を招いたわけです。
“自閉しぐさ”が許されてきた学校現場でも、人命が失われるほどの事態が起これば多少は焦ります。しかし、本当に“多少の”焦りでした。門扉を締めた教師(後に実名で本を出版)は懲戒免職を食らったものの、校長や教頭は戒告以下の甘い処分、一緒にいた生活指導の教師2人に至っては処分なしという有様です。ただ、校長だけは罪悪感があったのか自ら辞職しています。
自閉症の特性で人ひとりの命さえ失われても受け容れてもらえるとは、逆に元気を貰える話ですね。勿論、これは嫌味ですが。自閉スペクトラムは人それぞれなので、私も嫌味や皮肉くらいは学習しています。
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