“炎上を防いだ人間”を誰が守ってくれるのか
暮らしPhoto by Erik Mclean on Unsplash
あるミュージックビデオ(MV)の表現が、野蛮な歴史を肯定し正当化するようなものだとして炎上した騒ぎがあります。その時もお題目のように「MVを世に出すまでに、これを疑問に思い止める奴はいなかったのか」と唱えられましたが、この疑義にすら待ったをかける意見がありました。
曰く、「炎上しかねない表現が世に出るのを防いだとして、その人間を誰が評価し守ってくれるのか」という話です。上司やスポンサーならまだしも、製作班の同輩や下っ端が差し止めるとなれば、例え明らかな炎上リスクを防ぐ勇気ある行動だとしても、褒められるどころか人事評価でマイナスになってしまいます。
なぜなら、作品を世に出した後のことなど分かりようがなく、ただ「色々な所が苦労して作り上げたものを潰した」という結果しか残らないからです。作品を世に出す選択肢と、お蔵入りにする選択肢、選べるのはどちらか一つだけ。炎上リスクを回避したかどうかよりも、進んでいた仕事を白紙にした責任の方が可視化されやすいものです。
結局のところ、表現が炎上するかどうかは世に出してみるまで分からない部分があります。「この部分は表現としてマズいから変えよう。変えられないならいっそ企画自体を白紙にしよう」と言い出すのは、かなり勇気のいることでしょう。しかし、止めた人間に対して「先見の明がある」「コンプライアンス意識が高い」と肯定的に評価されるでしょうか。嫌味で言われることはあるでしょう。ただ、「横から口出しして仕事を白紙に戻した面倒な奴」という悪評が勝るのではないかと思います。
どのような場面でも、事故を未然に防ぐためのノウハウや監視者は必要不可欠です。しかし、何も起きないあまりに“平和ボケ”してしまった人々から感謝を受けることは少なく、大抵は鬱陶しがられます。そして、何か起これば真っ先に「事故を防ぐためにリソースを割いていたのか」を責められます。
そういった“孤独なヒーロー”が、今日もどこかで何かを監修しているからこそ、表のメディアでの炎上表現が“あの程度”で済んでいるのかもしれません。どちらかといえば、そういう炎上はSNSや生放送など本人ひとりの一存で起こっている面が強いので、“自律”の問題かもしれませんが。