人の暮らし、営みについて
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当ホームページにお越しくださった皆様こんにちは。ライターのくろねこです。今回のコラムがくろねこがお届けするものとしては最後になります。何をお届けするか一生懸命考えて今回のテーマにたどり着きました。少々のお時間どうぞお付き合いください。
人はパンのためだけに生きるのか?
先のコラムでお伝えしましたように、世の中には自分の想像を超えた事情を持ちながらも一生懸命に暮らしておられる方々がいらっしゃいます。時には、某大手広告代理店の新人社員さんが過労の余り、自らの命を絶つという痛ましい事件も繰り返し起こっています。
筆者は、大変な事態が生じる前に何かできることはなかったのかとその都度思います。筆者自身もコラム「私の障害と社会参加」で述べました通り、過去に、その詳細は書けませんが、自らが属す組織の抱える根深い問題を何とかするために、自分の収入がなくなることと引き換えに思い切った行動に出たことがあります。しかしそれは「何とか良くなるようにしたい」という筆者の思いを超え、組織自体の消滅を招く結果になりました。
なぜこのような結末に至ったのか、私は考えました。組織が消滅しなくても良くなる可能性は充分あったのになぜそうならなかったのか?出てきた結論は、「生活を営むため、生きるためにお金なくちゃ始まらない」ことがあまりにも大きすぎたことと、その組織の抱えていた問題が恥ずべきものであり、しかも「自力での改善ができない」くらい大きなものとなっていたことのふたつです。
「生きるためにはお金(衣食住の充足)がなくちゃ始まらない」これは、人だけに限らず生き物共通に言える本質的な欲求です。でも、他の生き物が必要な分だけしか食べないのに対して、人間はお金を手にして「蓄える」ことを知ったことで、どこまでもこの欲求を拡大していきました。
イギリスでの産業革命以降、人間の暮らしは劇的に変わります。どれほど便利になったかは、インターネットやスマートフォンの爆発的な広がりを見れば容易にご想像いただけると思います。しかしその反面それまであった貧富の差とは比較にならないほど、使いきれないほどの富を持つ人々と、日々の食べ物にすら困っている人々との格差は拡大しました。今も多くの企業が出資者である株主という富める人たちが更に富めることを第一に日々奔走しています。
人が生きるのはパンのためだけではない
こうした現実のなかで、古くはカーネギーやロックフェラー、近いところではビル・ゲイツといった巨万の富を手にした人々が財団などを作り社会福祉のための活動を行っています。日本ではごく最近、孫正義氏が個人資金で「孫正義育英財団」を設立し、社会貢献への意欲旺盛です。タイガーマスクの名前を借りて児童養護施設に毎年ランドセルを届け続けた人がいたことも有名な話です。エジプトのピラミッド建設、実は雇用を生み出すための公共事業だったという見解もあります。
こうしたことについても、くろねこは考えました。太古の昔、人は集団で狩猟や農耕を協力しながら営んでいました。そうした暮らしのなかには、できる人とできない人どちらもいたと思います。できる人は、自分の属する集団の為に、できない人もその人に可能なことで集団の為にその手を差し伸べていたはずです。今に置き換えると、健常者と障害者の関係にも当てはまります。
人間には昔から周りの人々と助け合う、いたわり合う力が備わっていて、その遺伝子は今を生きる私たちにも受け継がれているとくろねこは確信しています。また、この世界にはこうした考えがきれいごととなってしまうくらい、深い絶望と虚無感を抱えて生きている人もいらっしゃいます。
現在、「クオリティ・オブ・ライフ」「ワークライフバランス」「プレミアムフライデー」といった言葉が生まれ、それが現実のものとなりつつあります。これまでの経済成長最優先から、人々の暮らしにも目が向けられることはとても良い流れだと感じています。
どれほどの富を築いても、それを一人の人間が使い切れるとは限りません。その富が広く行き渡り多くの人々が恩恵を受けることをきっかけにして、健常者と障害者の分け隔てなくお互いを助け合い、いたわりあうことができればもっともっと人の暮らしは素晴らしいものになることでしょう。くろねこもその一員として微力ですが頑張ります。
私がお届けしたコラムが、皆さまのお役に少しでも立つことができたのならば幸甚です。最後までお読みくださってありがとうございました。皆様のご多幸をお祈り申し上げます。