発達障害は空気が読めないの?(『発達障がい~神からの贈り物~』第10回)
『発達障がい ~神からの贈り物~』 第10回 <毎月10日連載>
皆さんこんにちは、今年は秋の訪れが早いのか朝夕がかなり涼しいですね。
さてさて、最近は発達障害を取り上げたメディアがNHKを始め多数あり、確実に社会浸透しつつありますが、同時に固定観念的な歪曲されたものも浸透しつつあるように感じます。代表的なもの一例が『発達障害は空気が読めない』『明確な指示がなければ作業ができない』であり、他にもそれこそ幾つも幾つも存在します。
これらの例は発達障がいそのものというより、身体の発達段階の何かの遅れが結果的にこういった特性を引き出している一例で、空気の読める人や明確な指示がなくても作業ができる人も多く存在します。このあたりが発達障害の理解の難しさでもあると考えられますが、今回はその中の『空気を読む』ということについて掘り下げてみたいと思います。
私も20代の頃は空気が読めないことで様々な問題を起こし、何度も職場を変え、家庭も崩壊、と人生のどん底を味わいましたが、ここ数年は『空気が読める』『発達障がいとは思えない』などと評されることが多くなりました。しかしこれは私自身が空気を読むことをやめたことに起因すること。まあ、このあたりも『やればできるのだから障害ではない』と批判されやすい原因でもあるのですが、それはまた別の機会に話すとして、今回皆さんの心に留めていただきたいことがあります。それは、ほとんどの発達障害当事者は空気が読めないのではなく、空気の読み方にズレがあったり、読み方自体よりも対処法に問題があることが圧倒的であるということです。
もちろん、様々な個性が渦巻く発達障害なので、私の目からも空気が読めないと思える人も一部はごくごく稀に存在します。空気が読めないことに悩んでいる時点で、空気を読もうという意識があるわけです。社会一般では空気が読もうとしていないように考えられがちですが、決してそうではなくむしろ人一倍空気を読もうとする意志が強い人が圧倒的で、だからこそ悩んでいるのではないでしょうか?
私自身も過去を振り返って、自分自身が場にそぐわない言動をしている自覚はあったものの、何故か抑制ができず、その後に自己嫌悪に陥ることがよくありました。現在は自助会活動などで多くの当事者と顔を合わせますが、同じように自分自身が周りと調和できていないことに気づいていいるものの、その対処法がわからない、もしくは選択した対処法が空気を悪くしてしまう、そういうことに多くの人が悩んでいます。
実際に空気に鈍感な人より敏感になりすぎている人のほうが多いことはたくさんの当事者と会ってみると簡単に判ります。
では、どんな風に対処したら良いのか?きっと皆さんはそう思われるでしょうね。ここについての説明はそれこそ本一冊分になるほどの内容になると思われるのでここでは深くは触れませんが、きっとこのコラムは当事者よりも支援者や当事者のご家族が多く読まれていると自分なりに推察して、空気が読めない人への良い対処法を一つ紹介します。
私はそもそも空気を読もうとしませんが、私なりにその場に合う言動を試みます。まわりで調和を乱す言動をとる人間がいたら、『空気を読め』と叱責することは絶対にしません。代わりに、『今は○○したほうが良いよ』と具体的なアドバイスを送ります。
考えてみてください。『空気を読め』と他人を叱責する言動こそが空気を読めていない人の行動ではないでしょうか?私は学習塾を開いていた頃こんな出来事がありました。私の塾では一斉授業は行わず、それぞれが好きな科目、好きなテキスト、好きな問題集を自分で決めて学習し、質問があればどんなことでも受ける、というような指導者側としては実にスリリング、というよりハードルの高いことをやっていたのですが、ある日一人の生徒が私にこんなことを言いました。
生徒:『先生、隣のやつゲームばっかりしていて全然勉強していない』
私: 『そうか、そうか』
そしてしばらくして同じ会話
生徒:『さっきも言ったが、隣のやつゲームばっかりしていている』
私: 『解った』
と一応はその生徒の言い分は聞いておくが私は放っておくと、
生徒:『先生、何故注意しないんですか?』
私: 『注意したよ』
生徒;『でもまだやっているよ』
皆さんおわかりでしょうか?私に忠告してくる生徒は自分が勉強したいのではなくて勉強しないと叱られる、良い点数を取らないと叱られる、だから勉強をやっているのに、となりの友達はゲームをやっているから注意して欲しい、と願っているわけです。しかし考えてみてください。自分はいやいやでも勉強やって、ライバルの一人がサボっていて良くない点を取ったら自分の努力は報われるのに、何故放っておかないのでしょう?
私はここに一つのイジメのルーツを見つけました。多くの子どもたちは良い点数を取らないといけないから勉強し、いい子でいないといけないと叱られるからやりたいことも我慢する。しかし、自分は我慢しているのに我慢しない者がいるとやはり納得行かない、そんな気分になるのではないでしょうか?
『空気を読めよ』という言葉の中に同じ気持ちが隠れていないでしょうか?周りの空気に合わせないといけないからいやいや黙っている、いやいや周りと同じ行動をしている、そんな時に自分の思い通りの行動をしている人間を叱責してしまうのではないでしょうか?
だから私は、叱責するのではなくて具体的な行動をアドバイスします。もちろんそのアドバイスを受け入れるか受け入れないかはその人次第。それ以上に束縛はしません。アドバイスを聞かずに周りに嫌悪されてもそれはその人の行いであって、私には関係ありません。こういう対応をすると殆んどの場合アドバイスは受け入れられます。
きっと、空気を読めないと悩んでいる当事者の殆どは、空気が読めないことよりも読めない時の周りからの叱責を恐れているのではないでしょうか?そしてその恐怖が心を圧迫して余計にぎこちない言動を繰り返させているのではないでしょうか?
以上の説明は極一例でいつもいつも使えるかは判りません。しかし、空気を読めない人間とレッテルを貼っていても何も変わらないし、そういう人間を敵視する姿勢はその相手にも伝わります。そして誰だって完璧に調和できるわけでもありません。相互理解があれば特別な障害者支援が必要ないと私は考えますが、相互理解のためには叱責するのではなく先に述べた対応が最も効果的ではないでしょうか?
そしてそれ以上に周りが思う以上に空気を読めないと悩む発達障害当事者が多いことを心に留め於いて欲しいと願います。
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注意欠陥多動性障害(ADHD)