大切なことは自分をごまかさないこと「私のうつ病体験記」

うつ病 暮らし

出典:Photo by Mayur Gala on Unsplash

27歳で摂食障害、32歳でパニック障害、そして47歳でうつ病。社会生活30年目にしてぶつかった大きな大きな壁。休職、退職することで、大きくのしかかる生活への不安。

本当の自分を取り戻したい、という気持ちとは裏腹に、なかなか前に進めずにどん底まで落ちていた私でした。でもやっと、抜け出せるきっかけがありました。今回、「本当の自分」への復活までをお話していきたいと思います。

自分をごまかしながらの人生「べきべき人間」だった私

精神疾患3回目、いわゆる”再再発”で自分が抑うつ状態やうつ状態を繰り返しながら、20年以上うつ病と隣り合わせで生活してきたことに初めて気づきました。

27歳で転職を機に摂食障害を発症し、環境を変えたり、昇任するたびにうつ状態に陥りながらも、何とか自分をごまかしながら、いや、我慢しながら、まるで仕事が生きがいのように20年を過ごしていました。

今まで休職せずに転職だけで何とか過ごすせたのは、「決められたこと、任されたことはやって当たり前!」という自分の信念と、周りの支え(=逃げ場)があったから。でも、その逃げ場すら失い、「どうすれば自分自身をコントロールできるのか」さえ分からなくなった時、どうやら私は壊れてしまったようです…。

出てもないけど、出る杭は打たれる!ってこと?

田舎の高校を卒業後、大阪へ出て准看護師として働き始めました。たまたま、大きな病院に就職ができたことで、看護師としての基礎となる知識や技術など、様々な教育を持て余すことなく経験でき、看護の楽しさを教えてもらいました。しかし、職場が変わり、准看護師ということでの差別を受けることも多々ありました。

初めの摂食障害を発症したのも、准看護師であるがゆえのことでした。大病院で専門セクションの経験を9年経て、小さい個人病院への転職。それも、知り合いの医師の紹介でした。表ではいつもニコニコしている仲間は、「准看護師のくせに」「~先生の紹介だからっていい気になって」「専門的知識があって経験があるからって生意気」など、私への悪口を言いながら井戸端会議で笑っていました。必然と私の耳に入り、仕舞には、小部屋に呼び出されての説教。徐々に私は、仕事へ行くのが嫌になり、食事をすると嘔吐を繰り返し水分すら受け付けないなどの、精神症状が出現。自分では気づかないうちに体重は40㎏を切って、このままでは命の保障もできないと言われる状態に陥っていました。

心療内科に通院すること4年、何とか克服できました。勿論、転職もしましたが、休職することもなく働き続けていました。途中、短大へ入学し正看護師の免許を修得しました。転職組でしたが、准看護師としての経験を評価され、正看護師になって直ぐに看護主任に昇任することになりました。

そして、ここでもまた「転職組のくせに」「正看護師になって直ぐなのに」などの陰口。周りからの疎外感を感じ始めると共に、全身が膨隆疹に侵されるという、これもまた精神症状でした。蕁麻疹が治っても仕事に行く気がせず、眠れない日が続いたことから、自ら心療内科を受診しました。そこでの診断は「パニック障害、適応障害」との診断で眠剤の処方のみでした。「ゆっくり眠れれば、少しずつ回復してくると思います。あなたは看護師なので、ご自分で調整できるでしょ」と医師から言われました。当然、そんなことが出来ないからこそ受診したので、二度と診察にはいきませんでした。看護師ですので、勿論夜勤もしており、生活も不規則な事もあり、自分のことをショートスリッパ―(少し眠れれば十分寝た気になっていた)と、勝手に思い込んで生活していました。  

陰口なんか関係ない!結果は自ずとついてくる!

看護主任として、精神的に限界と思われる出来事が続いたことがきっかけで、40歳を目前にまた転職することにしました。職場を変えることは、かなりのエネルギーを使うことと経験してきたので、これが最後の転職になるだろうと考え、大きな病院を選択しました。これもまた、元上司の紹介でした。

ここで私は、看護師として、また一人の人として、人生で大きな経験をすることになりました。今回のうつ病の発症です。

ここでもまた、転職組であるにも関わらず、いきなり看護主任という立場での入職でした。初めの頃は「期待しているわ」と言っていた人たちも「期待外れだったわ」「たまたま〇〇さんの紹介だからか」等々、今思えばよく我慢できたなぁと思えるような、嫌味や悪口、素振りをされても、免疫力ができていたのか、何とか看護師長まで昇任しました。これもまた、昇任する度に、生え抜き組からすれば、いわゆる飛び級みたいな状況ゆえ、沢山嫌味を言われました。

嫌味を言われても、「仕事で結果を出せば何とかなる」と信じてやってこれたので、頑張って嫌味にも堪えてきました。何より、相談・愚痴を本音で聴いてくれる親友がいたからでした。たまたま同じ病院に就職、いつしか同じ立場で仕事ができ、私にとっては何より力強い味方がいたからこそ、頑張ってこれたのでした。泣きながら踏ん張って、泣きながら頑張ってきた結果、仕事もそれなりに楽しく過ごせるようになっていたと思います。特に看護師長という立場で、自分が何をするべきなのか自問自答しながら仕事をすることが楽しく思えていました。そして、私にも更なる転機がきました。

管理者への昇任。

環境の変化は自分へも変化を及ぼす

立場が変わると人は変わるものなのでしょうか。私を管理者として推薦してくれ、何事にも協力してくれて、何より頼りにできていた上司は、急に冷たくなり、相談に乗っていてくれた親友とは疎遠になり、連絡すらつかない状態になってしまいました。元部下たちは私と話しをしたくても、立場が違いすぎるからと離れる。何が起きたのか、自分ではどうしても分かりませんでした。

気付けば、私は誰にも自分の意見を、いや、「本音」で相談できる相手がいなくなってしまっていました。時間の経過は、上司のパワハラをどんどんエスカレートさせ、無視は当たり前、聞いてるのに聞いていない振り、「何故そんな態度を取るのですか?」と聞くこともできず、分からないことを誰にも聞けず失敗してしまう。そしてまた注意される。毎日が地獄と化して行きました。

うつ病発症と生活困難

「しんどい」ことを気付かれまいと必死で笑顔を絶やさないようにと、自分に言い聞かせました。トイレに1時間籠って連絡がきても出なかったり、誰もいない非常階段で泣いたり…。うつ状態であることは自分自身気づいていても、心療内科受診のチャンスすらない。何故なら、診療内科が開いている時に受診に行くことができなかったからです。

辛うじて、心理士への相談はできていたので、いつでも持っていけるようにと、診療情報提供書はお守りとしてもらっていました。いつもなら簡単にできていることが、何回やってもできず、また上司に罵倒される。そして、どんどん委縮状態になり、表情がなくなっていき……。そして、止めのパワハラ発言「そんな顔やめて!」

「月曜日症候群」、日曜日から全く動くことができず、「明日(月曜)仕事に行かなければならない」そう思えば思うだけ、気分不良が起こり、胸がドキドキして時折不整脈も起きる。勿論、夜は眠れない。電車の時間も何本も過ぎて、出勤時間は迫る。結局、タクシーで出かける。一体、何回タクシー出勤したのかすら覚えていません。電車に乗ることができない訳ではなく、自宅を出ることが関門だったからです。

ある月曜日、そんな状態で仕事に出かけたものの、「顔色が悪いわよ」と言われ、早退をすることになりました。すんなり早退できた訳ではありませんでしが、ホッとした自分がいたのは、今でもはっきりと覚えています。そして翌日、身なりを整え、バッグを持ち、出かけようとしても、自宅のドアを開けることができず、外へ出ようとすると吐き気、腹痛、下痢、嘔吐。結局、遅刻してしまう時間になり、休む連絡をしなければいけない恐怖と戦うことに。良く頑張って連絡出来たなと、今思うとあの時の自分を褒めてあげたいです。それから、私は長い引きこもり、うつ病との闘いが始まりました。

誰とも会いたくない。誰とも話したくない。とにかく何もしたくない。医師には「一日一回は、コンビニの店員さんでもいいから、とにかく誰かと会って、話をしましょう」と毎回言われていました。でも、なかなかできませんでした。

コンビニに行くお金もなく、色々な支払いができていない状態で、メールボックスは請求書と督促状だらけ。常に支払いの確認の電話がかかってきていました。クレジットカードも、気付かない内に沢山使っていました。限界でした。自宅を売りに出して、自己破産がベターだとすら思いました。これで、私の人生終わったかのような気持ちになるる日々でした。

生命保険の解約を始め、作れるお金を作って、なんとか凌ぐことはできましたが、「一文無しとはこのことか」と思い知らされました。

殻から脱皮するきっかけ

引きこもって半年が過ぎようとした頃、海外に赴任している妹家族から、「飛行機代しか出してあげれないけど、気分転換になるし、せっかく時間があるんだから暫くこっちに来ないか」という誘いを受けました。仕事をしていると時は、長期休暇も取れず、大好きな海外旅行すら行ける状況ではありませんでした。チャンスってこうやって来るのかと思いました。

全く外へ気持ちが向けれなかった私でしたが、義弟の計らいでアライバルビザも準備してもらい、3週間の予定で飛び立ちました。誰も私のことを知らないし、言葉も通じない。何となくですが、自分を取り戻せるような、変な気持ちになりました。義弟は、そんな国で私を一人国内旅行に出すことまでも計画してくれていました。心配する妹たちをよそに、私も何かに解き放たれたかのような、そして何でもできるような気分になっていました。言葉も通じない、英語すらまともに通じない、知らない国で一人、私は世界遺産・遺跡巡り等を楽しみました。実は、Wi-Fiすらない国でした。便利過ぎる毎日に慣れている私たちには、想像もつかない国です。

全く知らない世界は、「進むだけ」ということを気づかせてくれたような気がします。道を聞くと、必死に教えようとしてくれたり、英語が話せる人を探してくれたり、中には、危ないからと手を引いてホテルまで一緒に行ってくれた人もいました。全てが安全だったわけではありませんでしたが、海外旅行初体験ではないにもかかわらず、今回の渡航は初めての体験ばかりでした。私にとってはターニングポイントとなったのでした。

自分のしたいことはやってしまえ!我慢する必要はない。

帰国を友人に伝えると「えっ、一人で行ってきたの?帰りも一人?17時間?マジで!」と、まさか私がそんな行動をとるとは思っておらず、妹家族が全てサポートしてくれてるからと、付き添ってくれていたと思っていたようです。「仕事優先の人だったから、安全な事しか選択しない人と思っていた。やっぱり、何でも怖がらずにできる人だったんだよね!凄い!」と言われた時、何故か涙が止まりませんでした。「いつの間にか、私は狭い世界にいたんだなぁ」という思いが一気に押し寄せてきました。

日本に帰ると、直ぐに大好きな韓国のバンドの日本ライブツアーが始まり、これまで我慢していたものが一気に発散されるかのように、関西意外のライブにも足を運びました。仕事で行けず、ずっと我慢していたことのひとつです。上司に馬鹿にされたこともありました。でも、好きなものは好きなんです。この際、時間はあるから、できなかったことや、やりたかったことやってしまえ!と、金欠病はさておき、自分の思うがままに楽しいと思えることに時間を使ってみたかったのです。  

ふとしたきっかけが、本当の自分に気づく機会にもなる

若いころは、なんとなくやりたいことはやってもらえてたし、人任せでも大丈夫だと思えることばかりでした。でも、年齢を重ねる度、経験年数が増える度、役職が就く度、どんどん自分のやりたいことを自然にセーブして、気づかないうちにどんどん自分を追い詰めて行っていたのだと、漸く気づくことができました。

やっと外へ出ることができるようになった私は、主治医の勧めで、就労移行支援事業所に通所することになり、そこで、疾病理解・SST・CBTを学びました。看護師でもあるため、全く知らなかった訳ではないのですが、ここで何度も自己分析を行いました。きっかけがあったとはいえ、クリティカルな考え方に固着していた自分を、漸くロジカルな方向に変更していくことができるようになりました。

新たな自分の道を進んでいくのみ!

2年間、実社会から逸脱した生活をしてきた私ですが、やっと新しい人生に向かって行こうという意思、そして明るい方向が見えてきています。

大好きなK-POPを楽しみながら、ライブやオタク活動で知り合った仲間と会ったり、SNSで楽しく会話したり、笑いが絶えなくなりました。

この経験を生かしていきたいという気持ちもあり、NLP心理学を学びました。広い視野を持ち、常にポジティブな自分であること、これからは忘れずに実践していきたいです。それが、精神疾患を再発しないために必要なことでもあると思っています。

笑顔のラジモララ

笑顔のラジモララ

海外生活をしている家族のところに、1ヶ月滞在し、考え方が変わった私。「適当でいいんだ」と思えるようになりました。
音楽・映画鑑賞と海外旅行が大好き。そんな私は、韓流ドラマ・K-POPの虜になって早10余年。
ストレス発散は、好きなアーティストのライブDVDを自宅でガンガンに楽しむこと。

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