障害者を信頼しない社会と厳格化した健常者の基準

仕事
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以前、法定雇用率システムの矛盾について説明する中で、中島隆信教授(慶応義塾大学商学部)の寄稿や提言などを多く取り上げました。中島教授による障害者就労への考察記事は他にもあり、今回も3年半前と古めながら現在にも通じているコラムをもとにしています。

支援学校高等部を出てからの就労率は、知的障害者で3割、肢体障害者だと1割しかなく、多くの卒業生が福祉施設へ入ったり無職になったりするのが当たり前という状況です。「卒業後の行き先が施設の単純作業とは、支援学校が存在する意味はあるのかね」という批判を含んだ眼差しは、教育現場を就労支援への注力へかき立てました。

確かに就労率の低さは問題です。だからといってただ就労すればいいというものではありません。就労率の数字を稼ぐだけなら、共生とは程遠い働き方を作ってそこに押し込むだけでも達成できます。いいかえれば、障害者をメインストリームから除外したままでも法定雇用率などの数値目標程度なら達成できるわけです。

社会が障害者を全く信頼していない中、健常者(定型発達)であり続けられる基準もいたずらに厳格化しています。早いうちに診断を受けて療育を確立させるのは間違っていませんが、子どもが少ないのに支援学校が増えている状況と支援学校を出てからの進路を照らし合わせると、最善の判断とはとてもいえません。

掲げるは「全員就職」

2018年の法定雇用率上昇を受け、東京都教育庁は「目指せ就労率100%」を掲げて都内7つの特別支援学校内に「職業開発科」と「就業技術科」を新設しました。1年生は清掃や事務などの作業を一通り体験し、2年生は就労する分野を絞り込み、3年生は就職に向けて専門知識と技能向上を図るというのが主なカリキュラムです。

一般企業への就職を見据えて本気で取り組む関係上、どうしてもそれに応えてくれる生徒だけを入れねばなりません。そうなると入試としての適性検査は必ず出てきます。数段厳しい入試が出るとなれば、それを乗り越えるための「塾」も誕生するでしょう。

こうした動きを中島教授は猜疑心剥き出しで眺めていました。一般企業への就職と言っても、障害者向けに清掃や雑用といった単純作業の枠を募集しているに過ぎず、一緒に働くメンバーとして見ていない場合がほとんどです。

障害児の中でも就職できそうな生徒だけを迎えて鍛える支援学校が、社内の座敷牢に過ぎない「障害者枠」を最終目標に定め、その支援学校へ入るための塾まで存在するとなると、東京都が取り組む「本気の就労支援」とやらも茶番劇のように思えます。中島教授はこれを「需要と供給の追いかけっこ」と評しました。「法定雇用率を割りそうだ、“働ける”障害者を寄こしてくれ」という需要と「障害者枠の雑用に特化した人材を育てますよ」という供給として読めばいいでしょうか。

コミュ障いらなーい

「就職をゴールにしているのは特別支援教育に限ったことではない」と、話は大学生の新卒採用にまで広がります。中島教授は「大学など高等教育機関に在籍する障害者の数」という、日本学生支援機構が調査したデータを出しました。

障害を持つ学生の数は2006年時点で5000人程度だったのが、2015年には21000~22000人と4倍以上のペースで増加していました。しかも「病弱・虚弱」「発達障害」「精神障害」だけが著しく増えており、他の障害(身体障害)は微増しかしていません。

「大学のほとんどは筆記試験だけで合否を決めるので、病気や障害がマイナスに働くことは少ない」「しかし新卒採用では学力以外の様々な能力が大いに求められる」「健康面やコミュニケーション能力に問題のある学生を企業は嫌う。入社後の人事が面倒になるからだ」中島教授はこのように分析しています。そして、障害を持つ学生の4割が就活に失敗しています。

この辺りは体験した者として非常によく分かります。就活開始時は不調の無かった人でも、不採用が続いて就活うつになれば精神障害者です。診断の段階で発達障害が判明することもあるので、いわゆる「大人の発達障害」にも繋がっています。

支援学校に比べれば6割程度が就職できる分マシかもしれません。しかし、障害を理由に就職できず福祉施設の単純作業に甘んじる学生は決して少なくないのです。支援学校でも大学でも卒業後の進路が無くなり無職になる障害者は非常に多いです。社会全体が障害者を全く信頼していません。

障害者が満足に「タックスペイヤー」となれない構造が改善されないまま「税金泥棒」「生産性がない」などと有象無象からサンドバッグにされるというのは、ある意味世の中が上手くできている証かもしれません。

ちょっと躓けば障害者

障害を持つ学生のうち「虚弱」「発達障害」「精神障害」が爆発的に増えていると先にのべました。また、成人してから診断が出る「大人の発達障害」も盛んに取り上げられています。これは、診断のレベルが上がって基準がハッキリしたのが主因といえるでしょう。(診療報酬目的で適当に診断しているなどというのは、単なる陰謀論であり虚言であることは分かるはずです)

それ以上に、ほんの少しコミュニケーションに問題があるだけで発達障害を疑うような「完璧主義」が浸透しているのも大きいです。教育現場では未だに画一性が尊ばれており、些細な瑕疵で保護者に診断を求める有様はネットの素人による発達障害認定と大差ありません。保護者ですら、発達の微妙な遅れに過敏となり、カジュアルに支援学級や通級支援などの選択肢を採ろうとします。

確かに「障害の社会モデル」でいえば、本人が困っていなければ障害にならず、逆にどんな些細な事でも社会生活に支障があれば障害となります。しかし「障害の社会モデル」の主旨は「障害が社会の側にある」ということを忘れてはなりません。社会が課す障害について認知しなければ、粗暴な自己責任論を重んじる「障害の個人モデル」と大差ないのです。

また、診断名がつけばいいというものでもありません。むしろ障害者手帳を交付されることで生涯年収が大きく落ち込んでしまいます。障害者就労には最低賃金クラスの薄給が当たり前という問題点もあり、結局障害を隠して就活する「クローズド就労」を選ぶ人さえ出ています。

障害者への信用がゼロの社会と、ひたすら厳格化の一途をたどる健常者(定型発達者)の基準。これらが織り成す相乗効果は、生命の値踏みが横行する息苦しく生きづらい世の中を形成します。そうした生きづらさを形成した責任を誰も感じていない訳で、何とも救いのない話です。

「潜在能力」という売り文句

障害者就労の道を進んできてたびたび「障害者の潜在能力を~」「隠された才能を~」などという文言を見てきました。中島教授の寄稿にも「潜在能力」が書かれています。これには大きな違和感があります。「普通の健常者にはない何か」を想起する売り文句が無ければ障害者はまともに就活できないのでしょうか。

時々発達障害の偉人や有名人などが、似た障害を持つ人々のエンパワメントを目的として取り上げられることがあります。しかし、少し考えれば分かることですが類まれな(かつ社会的に認められる)才能を発揮できる人間はそもそも稀有で、障害者だから特別多いというわけではありません。抜き出た才能が無く苦しんでいる人間は健常も障害も関係なく偏在しますし、障害者であれば猶更苦しいです。

なぜ障害者に限って「潜在能力」や「隠された才能」などを殊更に売り文句とせねばならないのでしょうか。そもそも、一般職が難しいというだけで生涯年収が激減する構造自体が意味不明です。

障害者が悪いのではなく障害者をタックスペイヤーにできていないのが元凶だと思います。どこかの市長が「(発達)障害者が増えると税収が減って高齢者世代を支えられないぜクソが」などと喚いたことがありましたが、あれは原因を履き違えた妄言の代表例に過ぎません。

参考サイト

障害児向け「エリート校」が生まれる根本理由
https://toyokeizai.net

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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