障害者の過去をたどる旅~日本の障害者の過酷なあゆみ

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出典:Photo by Filip Andrejevic on Unsplash

ナチスの主導のもとおこなわれたT4作戦とドイツ人のオットー・ヴァイトについてのコラムを以前書きましたが、書いている途中にある疑問が浮かびました。

「ドイツの障害者はナチスの政策により、第2次世界大戦中に散々な目にあった。では日本の障害者は、戦時中どうだったのだろう?」

その疑問から、私は日本の障害者の歴史についても、調べてみることにしました。

プロローグ 「穀つぶし」と呼ばれた人々

明治維新後、日本は欧米列強に並ぶべく近代国家への道を歩み出しました。身分制度を廃止したり、欧米を模倣した議会や憲法を設置したほか「富国強兵」をスローガンに徴兵制がはじまります。

「国民皆兵」を目指していたこの時代、徴兵検査で「丁種」と判定された人々は「穀つぶし」「兵隊になれないくせに大きな顔をするな」と心無い言葉を投げつけられました。「丁種」と判定された人々の大部分が、障害者だったといわれています。

兵隊になれないものは人でなしだといわれたものの、戦争は兵士がいればそれでいいというわけではありません。

まず、飛行機、戦車、武器の製造や、整備や修理ができる技術者は必要です。武器を含む物資の運搬も必要ですし、負傷者に対応する医療従事者も欠かせません。

第二次世界大戦において、このような後方支援に回った人の一部が障害を持つ人々でした。

後方支援活動をするには、技術は勿論知識も必要になります。では、障害者に対する教育や職業訓練はどのようなものだったのでしょうか。

明治以降、障害者に積極的に手を差し伸べたのは宗教者や篤志家などの私人で、政府は何もしていないにひとしい状態でした。

実は障害者を含む生活困窮者については、国民が相互に助け合うものであり、公に責任はないというのが当時の政府の見解でした。

現在、特別支援学校は全国各地に設置されていますが、それは先人たちが大変な苦労をへて、学ぶ権利を勝ちとったからに他なりません。

次の章からは、障害の種別ごとに、どのような歩があったのかを見ていきましょう。

第1章 視覚障害者・聴覚障害者の場合

江戸時代、視覚障害者には専門家としての地位が認められていました。三味線、筝曲などの楽器演奏のほか、鍼灸、按摩なども視覚障害者が専門的にいっていました。鍼灸や按摩を生業としている人々は、自治組織も作っていたほどです。

しかし明治になると、政府は視覚障害者の特権を剥奪し、営業の自由をいい渡しました。

それでも、明治前期には視覚障害者は、多くが労働に携わっていました。按摩や鍼灸をおこなうものがほとんどでしたが、収入は少なく、ほとんどが貧困の中にいたといっても過言ではありませんでした。

こうした情勢の中1878年に、日本で最初の支援学校に相当する「盲唖院」が、京都に設立されました。

視覚障害者の権利はそれ以降も少しずつ拡大されていきますが、1936年に内務省がいった調査では、学齢に達した視覚障害児の就学率はわずか39%しかなかったのです。

その一方、成人した視覚障害者の団体は、障害者の職や権利の課題の解消を求めて活動していました。しかし、戦争が始まると、次第に国策協力に転じていくことになります。

戦時中に大きな影響力を持った「日本ライトハウス」を創設した岩橋武男さんの活動が、国策協力そのものといえましょう。

岩橋さんは早稲田大学在学中に、網膜剥離で失明したのですが、自身が視覚障害者となることである事実に気がつきました。

それは、視覚障害者のほとんどが按摩や鍼灸にのみ生計を頼り、点字の書物も乏しいことです。それが原因で生きる意欲を失っている方が多いことに気づき、危機感を抱いたのです。

岩橋さんはエジンバラ大学で学んだあと、点字図書の貸し出しや講習会などを行う日本ライトハウスを1935年に設立しました。

その後、彼は日本軍部にも積極的に関わり、戦闘で失明した兵士を熱心に支援しました。これは、失明により障害者となった元兵士への社会的関心が高まる中、彼らを支援する事で同時に視覚障害者全体への関心も高まるのではないかと考えたからです。

こうして失明した元兵士のために自転車やラジオの組み立て、無線通信士の育成などの職業支援が始まり、職業訓練所もやがて設けられました。

1944年には兵器工場に大阪市立盲学校の全盲の生徒が14名動員され、ネジのよりわけから電波兵器製造にたずさわりました。長野では長野県立の盲学校の生徒が航空部品の製造や飛行機のタンク磨きのために動員され、学校も工場に校舎の一部を貸与しています。

兵器工場への動員という形で戦争協力した盲学校は、全国の公立の学校で74校、私立で45校存在しました。

そのほか「目が見えない分、聴力に優れているかもしれない」という理由で、爆撃機の飛来する音を察知するための監視員として、視覚障害者が動員されたケースも有りました。

「盲人の方が自分よりも数秒早く、船が入港する音に気がついている」と証言した人もいます。按摩の技術を買われ技療手(ぎりょうしゅ)として、従軍する者もいました。

それでは、聴覚障害者はどうだったのでしょうか。実は、聴覚障害は農村ではそれほど大変な障害という扱いではありませんでした。しかし、都市がが発展し仕事が複雑化するにつれ、徐々に仕事が無くなっていったのです。

それでも、視覚障害者は点字という全国共通のコミュニケーションの手段がありました。ところが、聴覚障害者には手話があったものの、地域によって違いがありました。

その上、明治以降には欧米で開発された口話が導入されたことにより、手話が一旦否定されてしまったという過去があるのです。

戦時中は視覚障害者と同様、聴覚障害者にも工場への動員がありました。勤労動員は原則中学生以上でしたが、浜松では聾唖学校の小学生が勤労動員されていました。中には、わずか10歳で働いていたというケースすらあるのです。

推測の域を出ないのですが、浜松で小学生まで動員されたのは浜松聾唖学校の校長の「自分が最も積極的に、聴覚障害者を勤労動員した実績を作りたい」という功名心のせいではないか、と指摘する歴史研究家もいます。

第2章 身体障害者(肢体不自由者)の場合

「肢体不自由」という言葉は昭和初めに作られた言葉です。それ以前は「かたわ」「ちんば」「てんぼ」などの蔑称で呼ばれていました。

現在ではこれらの言葉は差別用語であり、使用が不適切であることはいうまでもありません。

身体障害者に関しては「異様な外見で生まれてきたのは、呪いか前世の因縁」だという迷信が、根強く存在していました。好奇の目を引くという理由で興行師に買われ、見世物にされることもあったのです。

また、身体障害者は兵隊としては不適格ではあったが、徴兵検査の対象外にはなりませんでした。

脳性麻痺のため自立歩行のできない障害者の証言では、徴兵検査に招集されても自力でいけず、知人の車でいくしかなかったそうです。知人が到着報告をしにいくと、しばらくして将校らしき男性が車まで歩いてきました。彼は車のドアを開けましたが、姿を一瞥しただけで帰っていきました。その確認した時の目つきが「人間を見る目ではなかった」と感じたといいます。

1890年の法律には、あらたに「就学免除」が加わりました。この就学免除に身体障害児と知的障害児が入れられ、公教育から排除されてしまったのです。

1921年に、東京小石川に初の身体障害児のための学校が設立されました。しかしこの施設ではリハビリが主で、学科授業は副次的なものに過ぎませんでした。

昭和に入ると、初の公立学校が設立され、光明学校と名付けられました。1939年には、光明は東京の世田谷と麻布の2箇所に校舎を持つまでになりました。

開戦後、日本本土への空襲が深刻化していったため、国は学童疎開を進めていくことになります。しかし「集団生活に適さない」と、疎開の対象外になる子供もいました。結核やトラコーマなどの伝染力が高い病気にかかっている人や「介護を要する肢体不自由児」も、集団疎開の対象外になってしまったのです。

周りの学校が次々と疎開していくのに、光明には疎開の声がかかりません。業を煮やした校長が都の学務担当に相談しても「健常児の疎開で手一杯だ」と冷たくあしらわれるだけでした。

そこで校長は世田谷の校舎に全ての児童を集め、現地疎開という手段を取ることにします。「麻生よりは世田谷の方がまだ田舎であると」いうのが理由でした。

世田谷に疎開したものの「ここも安全ではない」と校長が危惧したのは、1945年3月の東京大空襲です。校長は校舎の上を低空飛行する戦闘機を目撃しており、子供たちは東の空が真っ赤に燃える様子を見ていました。

危機感を抱いた校長は長野県の旅館をひとつひとつ尋ね歩き、ついに上山田の村長が所有するホテルを、光明に貸してもらう約束を取り付けることができました。

しかし、子供たちの疎開生活は国からの補助金だけではとても足りず、保護者や卒業生からの寄付を懸命にやりくりし続けたといいます。

終戦後、中学までの教育や盲学校・聾学校も義務化されました。しかし、身体障害児の義務教育化は実施されず、光明学校の校長はさまざまな方法で、公立学校の設置を訴えたのです。

1956年、公立の養護学校を促進する法律が制定されましたが、身体障害児の義務教育が実現したのは1979年。戦後30年以上もたってからのことです。

第3章 知的障害者の場合/h2>

「白痴」「痴愚」「愚鈍」……かつての知的障害者に対する蔑称です。「低能」「精神薄弱」ともいわれ、後者については戦後にも使用されていました。

江戸時代までは、知的障害者たちは家族の仕事の手伝いをしていました。農村であれば農業の手伝いができたものの、都市部では働き場に恵まれず、浮浪者になることが多かったといいます。

知的障害者は兵役から排除され、就学免除の対象でもありました。なお、知的障害者に対する施策が法律化されたのは戦後であり、それまで知的障害者を支えていたのは、宗教関係者、社会事業家などの私人でした。

濃尾地震をきっかけに設立された滝之川学園を皮切りに、国内に知的障害児のための施設が徐々に作られはじめます。1934年には「日本精神薄弱児愛護協会」が設立され、滝之川学園を含む8施設が加入しました。

この8施設の中に、藤倉学園という学校がありました。

知的障害者のための施設として4番目に設立された藤倉学園は伊豆大島にあり、校舎とは別に4万坪もの農場を所有していました。中度と軽度の知的障害児の教育をおこなう一方、成人した知的障害者には農業や養鶏をまかせていたのです。

開戦後の1944年、伊豆大島に陸軍施設の建設が始まりました。建設には島民が動員され、藤倉学園からも軽度の知的障害者が建設作業に従事しています。

伊豆大島を要塞化するためには、さらに多くの労働者が必要になりますが、島民ではとても足りません。かといって、島外から動員した労働者を、寝泊りさせられるような施設はありません。

島外からやってきた労働者を収容する施設として軍が目をつけたのは、広大な敷地を持つ藤倉学園でした。

軍から敷地と校舎の明け渡しを要請され、同年7月に園長は疎開を決意。しかし軍は立ち退けとせっつくばかりで、立ち退き料も支払われなければ、疎開先も紹介してもらえなかったのです。

疎開先を紹介してもらおうと、園長は出身地である茨木県知事を訪れますが「そういう子には無理」と断られてしまいました。園長は娘である仁子さんから、立教学園が清里に寮を持っている事を聞き、借用を申し込むことにしました。

すると、管理先から「知的障害の子が使ったら建物が無茶苦茶にされるだろうから、買い取って欲しい」といわれたため、寮を買い取りました。

園長は子供たちを出来るだけ親元に戻しましたが、30名ほど行き場がない子供たちがいました。その子供たちと仁子さん含む園の職員を2班に分け、藤倉学園は清里に出発したのです。

清里の寮は夏場に使用されることを想定しており、暖房は設置されていたものの、建物は冬の寒さに耐えられるような作りではありませんでした。部屋に置いていたみかんが、たった一晩で凍っていることもあったといいます。

風呂も浴槽全体を暖めることが困難でした。結局週に一度、子供たちを数人ずつグループ分けし、県境の温泉に連れていくことになりました。

あるとき、仁子さんが温泉への引率をしているとき、列車の中で憲兵と居合わせました。子供たちの様子を見て健常児ではないことに気付いたのか、憲兵は彼女に近寄りこう耳打ちしたのです。

「私が処分してあげましょうか?」

憲兵にとって、戦争の役に立ちそうにない知的障害児の、存在意義など見いだせなかったのでしょう。仁子さんは「知的障害に理解のない時代でしたから」と話しました。

寒さが続き食料も不足してくると、子供たちは島の生活を懐かしがりました。焼き芋やびわの実をおやつにもらったことを思い出し、毎日のように食べる真似をして遊んでいる様子を見て、職員らはあまりの不憫さに涙したといいます。

厳しい環境下で命を落とす子供もいました。藤倉学園では終戦までに10人の子供が、栄養失調から体調を崩し亡くなってしまいました。

子供たちは寮の近くの村に埋葬されましたが、後に地元住民が十字架を立て、聖アンデレ教会が10人の子供たちの名前を刻んだ墓碑を作りました。

終戦後、立教学園から再度寮の引き渡しを求められたため、藤倉学園は寮を売り渡して伊豆大島に戻りましたが、農地は荒れ当たりは雑草が生い茂っており、子供たちは「これ本当に学校?」としばらくなじめなかったそうです。

清里の寮の創始者ポール・ラッシュは、寮を買い戻した後も亡くなった子供たちの事を気にかけていました。聖アンデレ教会の牧師は、ポールがいつも「藤倉ボーイズのお墓は大丈夫か?」と心配していたと証言しています。

エピローグ いつの時代も3

結局のところ日本にも「国のために戦えるか否か」という基準で人間の価値が図られ、その結果多くの障害者が不当な扱いを受けてきた歴史がありました。

戦争が起こると、障害を理由に身動きが取れなくなることは珍しくないこと、戦争には新たな障害者を生み出すという側面があることに、私自身はじめて気づきました。

私たちが日常生活を送っている今このときにも、戦争に巻き込まれ、身動きの取れなくなっている障害者は大勢います。2022年2月に始まったウクライナ侵攻により、身動きが取れなくなっているウクライナ国内の障害者たちが、正にその例だといえるでしょう。

多くの障害者や難病患者が支援網から切り離され、医療設備などを利用できなくなり、自宅や施設に取り残されていることをご存知でしょうか。

空襲警報が鳴っても視覚障害者は避難場所にたどりつけず、聴覚障害者は空襲警報を聞き逃すことで、命をおびやかされています。

車いすを使用している障害者の場合は、空襲警報が発令されるとと、エレベーターが停止してしまって建物から逃げられず、やむなく自宅にシェルターを設置している方が多いといわれています。仮に屋外に脱出できても街が破壊されている場合、道が瓦礫だらけで車いすでの移動が困難になってしまうこともしばしばです。

知的障害者の場合、なぜ避難しなければならないのかすぐに理解することが難しい方の場合、すぐの避難ができないケースが発生しています。自分の身に何が起こっているのか情報を把握できず、パニックを起こしてしまうという事例もあるようです。

2022年4月、国連障害者の権利委員会は、ウクライナ国内に270万人いるとされている障害者の大半が、安否不明との声明を発表しました。

戦争が起こると障害者の多くが、孤立してしまうことを知らないのが現実です。

いつの時代も戦争は、多くの障害者を危険の中に取り残し、多くの障害者を新たに作り出してきました。この先、人間は何度同じことを繰り返すのでしょうか。暗たんたる気持ちになります。


林雅行著 障害者たちの太平洋戦争:狩りたてる・切りすてる・つくりだす(風媒社)

【戦禍のウクライナ・障害者のいま 戦争と障害者の歴史】
https://www.nhk.or.jp

【ウクライナ 困難きわめる障害者の避難】
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog

オランプ

オランプ

長年にわたってうつ病で苦しみながらも病気を隠して働き続け、40歳になる前にやっと病気をオープンにして就労したものの生きることのしんどさや職場でのトラブルは軽減されず。実はうつ病の裏に隠れていたものはADHDであり、更に気が付けばうつ病も病名が双極性障害に変化。これだけ色々発覚したので、そろそろ一周回って面白い才能の1つでも発見されないかなーと思っているお気楽なアラフォー。
実は自分自身をモデルにして小説を書いてみたいけど勇気がない。

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