学びにならない「悪しき交流学級」は何故生まれるのか

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支援学級の児童や生徒を通常学級に交ぜる時間、これを「交流学級」といいます。経験者の中には「これが何の学びになるのか」「実態はインクルーシブ教育と程遠いのではないか」と思った方も居るのではないでしょうか。

ネット上では支援学級の生徒から受けた「被害報告」「被害体験」が叫ばれ、醜い傷の舐め合いに発展しています。その一方で、「人生で一度も障害者に会ったことがない」と豪語する者もまた発生しています。これらは、形だけで何の学びにもならない「悪しき交流学級」が作ったものではないかと思われます。

悪しき交流学級のカタチ

インクルーシブ教育どころか何の学びももたらさず、ただ将来の分断を煽るだけの「悪しき交流学級」とは、具体的にどういったものでしょうか。その第一の特徴は、支援学級の生徒と接する人間が固定化されていることです。これで何が起こるのでしょうか。

高スクールカースト
まず、高スクールカーストは支援学級の生徒と接触するのを陰に陽に避け、より低いカーストの生徒へ押し付けます。その手際はあまりにも自然で、まるで最初から「自分たちは関係ない。世話するのはそいつらだ」と決まっていたかのようです。そして、彼らの視界からは支援学級の生徒など完全に消え失せます。
たまに「人生で一度も障害者に会ったことがない」と豪語する大人がいますが、こういった背景で育ったならば当然でしょう。ただ、会ったことがないのではなく「障害者から逃げ続けてきた人生」と言い換えるべきでしょうね。
この層は、障害者差別はよくないと理論では分かっているつもりですが、関わった社会経験というものがありません。上辺だけの綺麗事なら言えますが、実際に近所で住んだり接したりとなると非常に嫌がります。大体そんな大人になります。
なお、高スクールカーストとは書いておりますが、低スクールカースト内でも押し付けは発生しているので、厳密にはほとんどのクラスメイトがここに含まれます。

固定した「お世話係」
実際に支援学級の生徒と日常的に接するのは、低スクールカーストの中でもごく限られた数名、酷いときは一人だけです。暗黙のたらい回しの末に、「~ちゃん係」「お世話係」が決まり、それに固定化されます。友達同士の良好な関係を築けたならばまだしも、そうでなければ「お世話係」にされた生徒は孤立します。
支援学級の生徒を厄介者としてクラスで一番弱い生徒に押し付けるのは、いじめ同然と言っていいです。しかし、いじめとして告発することはできません。最後の受け皿が反発したところで逆に悪者扱いされて叱られるのがオチだと分かっているからです。
孤立した「お世話係」は最悪の場合キャパオーバーを起こします。そうなると、支援学級の生徒に嫌がらせや暴言を働くようになり、介護業界の問題を小学生や中学生が演劇でもないのに再現し始めます。このまま大人になれば障害者アンチとして育ち、自らの経験をもとにヘイト言説をばら撒くようになるでしょう。
ちなみに、断り切れず我慢して溜め込む生徒ほど悪感情に呑まれやすく、「出来ないことは出来ない」「おかしいことはおかしい」とハッキリ断れる生徒のほうがキャパオーバーしにくいようです。

支援学級の本人
支援学級から連れ出される生徒本人は、何も感じていない訳ではありません。傍から見ればヘラヘラと呆けているようですが、裏では四方八方から向けられる悪意を感じ取っています。ただそれを表現する方法を持たないので気楽そうに見えているだけです。
クラスの目立つグループからはキモがられ厄介がられ忌避され、世話役にされた生徒からは迷惑がられて鬱憤をぶつけられ、相談しようにも問題点のアウトプットが出来ない三重苦。間違いなく一番苦しい立場でしょう。
この中には、後年になって「交流学級のたびに苦痛だった」「健常児は自分のした仕打ちを忘れて被害者面で語る」と当時の辛さを話せるようになった人もいます。

原因はダンピング(投げ捨て)する大人にある

学びどころか分断と逃避とヘイトを育むだけの「悪しき交流学級」が生まれるのは、ひとえに大人の怠慢が要因となります。特に、送り出すだけの支援学級の担任や、生徒に任せきりで関与しない交流学級の担任の怠慢は大きく影響しています。酷くなると以下のような事例まで発生します。

──何もしていない高スクールカーストが美辞麗句を並べた作文で褒められフリーライド。実際に接している生徒が「お前もあいつを見習って優しくなれ」と担任に叱咤される。
──普段から「お世話係」という理由で、担任の口から引率教諭の代わりを頼もうとする。
──班分けの段階で「お世話係」を固める。ほとんどいじめだし、支援学級の生徒をいじめの道具にしていて尚更タチが悪い。

通常学級に放り込むだけのやり方はダンピング(投げ捨て)といい、何の学びにもならないどころか偏見を助長するだけの逆教育です。極端に言えば、倫理的に間違ったことを学校で教えているに等しい状態です。未熟な子どもだけで課題を良いほうに解決することは出来ません。ガチガチに管理しろとまでは言いませんが、違いや特性や人権について皆で考える機会をクラスに提供するのも担任の仕事ではないでしょうか。

分離教育が悪いのではない

勘違いしないで貰いたいのは、通常学級と支援学級で分ける「分離教育」そのものを否定していないことです。上辺だけまぜこぜにしても、交流学級にありがちな問題を解決しない以上は何も変わっていません。寧ろ、支援学級という「聖域」を廃することによる弊害のほうが目立つと思います。インクルーシブ教育というのは、ただ上辺を繕うだけで出来るような単純なものではありません。そもそもインクルーシブには「包摂」「包含」といった意味合いがあり、包摂する意思が社会や集団に無ければどうしようもないわけです。分離教育から消すのは順序が逆と言わざるを得ません。

一方で、交流学級を1クラスだけに留めるのもいい加減やめた方がいいと思います。出席簿の上では対象のクラスに支援学級の生徒が入っているというのがメジャーですが、そうなると他のクラスが交流学級にならない訳です。障害者について完全に無知なまま大人になるのは、こうした背景もあるのでしょう。なんにせよ、この「不平等」は学びや考察の起点としない限り教育に悪影響を及ぼします。

単一のクラスだけを交流学級とせず別のクラスへも同席することが必要ではないかと感じています。そもそも、包摂の何たるかについて担任含めて徹底的に叩き込めれば、こんなことで悩まずに済むのでしょうけれども。

参考サイト

発達障害の子の「お世話係」について
https://ameblo.jp

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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