うつと共に生きる
うつ病うつ病にて精神障害者となるにいたった半生を振り返りながら、うつ病をどのように受け入れたか。自分の病状や健康状態と向き合ったときに、何も思ったかを説明したいと思います。
かつての私
かつての私は、もっと元気でした。不景気の中、地方の政令指定都市で就いたパート業ではありましたが、その中で順調にステップアップをしていった実感があります。
同時に「自分が仕事を抱えて終わらせる」という方法をとっていたのも事実です。その日に仕事を終わらせなければ、翌日の業務へ影響が色濃く出る、という理由で職場とすり合わせをしながら働いていました。やや強すぎる責任感もここでは役に立っていました。
ただ、労働期間が長くなればなるほど「よりスキルアップをしたい」「よりキャリアアップしたい」と考えるようになったのです。私にとっては、これが不運の始まりでした。
キャリアアップのつもりが
転職先は、現場におもむいて作業をする形式の業態です。「モノを作る」「モノを仕上げる」という意識の人たちに混ざっての仕事でした。職業意識が高い反面、それを他人に強いる面もあったのです。
作業の確認を取れば怒られ、道具を取りに行けば怒鳴られ、作業を終わらせれば罵られ、人のいうことを聞けば馬鹿にされる。いわば「詰んでいる」状態でした。当初持っていた向上心は数か月でなくなり、無気力で辞める理由を探すだけの毎日になっていました。
それでも数年間、何とか就業をしていたのですが、さらに転機が訪れます。責任者をしてみないか、ということでした。1度は断ったものの社長の言葉で敢行。責任者として現場に立てば、扱いはさらに酷くなりました。くわえて、もともとあった強すぎる責任感が裏目に出てしまい、ついに心の悲鳴が身体にまで。
その段階で初めて心療内科を受診した私に出た診断は、適応障害でした。
適応障害は「原因が明確で、原因から離れれば寛解の見込みがある」病気です。
「そうか、なるほど」と。元々、辞める理由を探していた私はこれ幸いと、現場職を辞職しました。そして職を変えて、住所も変えて、以前のようにキャリアアップを目指した生活を考えていました。ところが、適応障害は治っていなかったのです。新しい職場での人間関係や緊張感などによって、前職を思い出し、ふたたび、心身に悲鳴が走ります。
私自身に「適応障害を抱えながら労働をする」能力はありませんでした。強すぎる責任感は、やがて自分自身を責めるようになり、いつしか自傷行為や希死念慮にまで発展します。最後には「四つ這いで身支度をし、背負った鞄に押しつぶされて立てない」状態にまでなりました。
今度は「うつ病」を発症して、退職することとなったのです。
うつと共に生きる
「うつ病」で検索をすれば「疲れやすくなる」など、様々な病状がでてきます。
実際、私も「疲れたので折り畳みのいすを取り出して休む」という状況が、まだあります。また、部屋で休んでいる時に日差しがさしこめば「世間から奇異な目で見られている」という錯覚も起こしていました。そんなときは「錯覚だーっ」と実際に口に出して、その状態を否定しています。
そんな中で、現在、通所している就労移行支援事業所さんと出会い、リハビリともいえる生活を送っています。まだ社会への恐怖心や卑屈な感情は残っていますが、ゆっくりと「かつての自分」に戻ってきた実感もあります。
一方で思うのは「『世間』は健康な人を前提にしすぎているのではないか」ということについてです。生まれながらに病気を持っている人もいれば、高齢になって初めて病気にかかる人もいます。私の知り合いでは「何かしらの病気だと知っているが、病院にいっていないので病気じゃない」という人もいました。
道いく人や工場で働く人、みんなが何かしらの持病を持っている可能性があります。花粉症でクシャミを何度も出しながらであったり、あるいは、人知れず高血圧の薬を飲んでいたりもするのでしょう。それでも、みんなが「病気の無い人間だと装って」社会人生活を送っているのだと思います。
決して誤解しないで欲しいのが「みんな辛いから我慢しよう」という話ではありません。「できることから頑張ろう」という話です。一時期は「健康であらねば社会人にあらず」とでもいいたげな、心の狭い「世間」という不特定多数集団を過激に攻撃したい気分でした。それでも、できることからやっていくしかないのだと、自分にいい聞かせて生活しています。
就労移行支援事業所さんで聞いた「1日1回自分を褒める」ということを、新しく始めました。「早寝早起きをしたから偉い」「薬を飲んだから偉い」「息をしたから偉い」など、そういったことをくり返しています。
そうやって、うつ病と他の持病がいくつか。あわせて5人6脚で頑張って生きていきます。
うつ病