自他境界が曖昧なわたし、自分軸で生きてみようと思います
暮らし出典:Photo by Alonso Moreno on Unsplash
「私、どうして『他人の考え方こそが正しい』って思いこんでたんだろう」
そう気づけたのは、心のどこかで「他人の価値観で生きるのがつらい」と思っていたからかもしれません。
「他人の価値観が正しい」という思いこみに気づいた瞬間
「あなたの考え方はおかしい」と友人に指摘されたのは、今から数年前のことです。
その日はつき合いの長い友人グループのひとりの送別会をしていました。遠方に引っ越すという彼女は、グループ全員の共通の友人とみんなに内緒でおつきあいしており、明日入籍するのだと打ち明けました。
そこから、実は自分も結婚するという話が次々に上がりはじめました。話に相槌をうっているだけの私に「ところで、あなたはどうなの?」と水が向けられました。
「つき合っている人、いないんで」というと、彼女は気まずそうな顔をしました。
「そうなんだ。いつごろ結婚するつもり?」
「あの、私結婚は、したくないというか……」
そういうとすぐに「どうして?」という質問が四方八方から飛んできました。
私はこのとき、精神疾患であることを打ち明けていませんでした。当時は精神疾患への偏見が今より強く、精神病院に何度も入院している妹もいて、結婚を前向きには考えられませんでした。
「ねえ、結婚したくないなんて、おかしいと思わない?」
1人の友人が質問の嵐をさえぎって、強い口調で話し始めました。
「人生って、夫とか、子供とか、自分の大事な人のために生きるのが当たり前でしょ。自分のためだけに生きるって自分勝手過ぎ。ていうか、何のための人生なの」
大事な人のために生きるのが当たり前。自分のためだけに生きるのは無意味。その言葉は、とげのように私の心に突き刺さりました。
他の仲間からも「そうだよね」と声が上がり、私はうつむいたまま何もいえませんでした。
適齢期になったら結婚して、他人のために生きるのが当然。それをやりたくない私は、ダメ人間。せめてたくさん働いてたくさん税金を納めるしか、自分には価値がない。
そう思い込んだ私は、残業もいとわず仕事をどんどん引き受け、がむしゃらに働くようになりました。
しかし、まだADHDの診断が下りていなかった私は、仕事を大量に抱えた途端ミスが増えました。さらに周囲と適切なコミュニケーションも取れず、最終的に職場内で孤立。
そこから転職を繰り返すようになり、精神状態もどんどん悪化していきました。
先日趣味仲間と食事をしているときに、この話を打ち明け「自分のためだけに生きるなんて、幼稚ですよね」と自虐すると「何でそんなこというの?」と驚かれました。
「自分のために生きてもいいじゃない。結婚して家族のために生きるとしても、夫は先に死ぬかもしれないし、子供はいずれ家を出ていく。自分が主役の人生の何が悪いの」
そんな風に考えてもいいんだ。私、自分のために生きていいんだ……そう思ったとき、安堵で思わず泣いてしまいました。
さて、私は長い間「他人の価値観こそが正しく、自分の価値観は幼稚だ」と思い込んでいたのですが、なぜこのようなことになってしまったのかを、考えてみたいと思います。
自分なりに生き方を見直してみる
思い返せば、小学校から中学校までの6年間、私はいじめられ続けていました。バイキン扱いされる辛い気持ちを担任に訴えても「あの子たちは、いくら指導してもいうことを聞かないから」という答えがかえってくるばかり。
いつしか「わたしの気持ちは、大袈裟すぎるんだろうな。きっといじめなんて、大したことじゃないんだ」と、自分の感情を軽視するようになったのが、原因のひとつかも知れないと思っています。
そのほか、妹の行動に合わせる癖が長年続いていたのもよくなかったのでしょう。
妹は、自分の好きな俳優が出ている映画やお気に入りのスポーツチームの試合を、家族で一緒に見たがります。ひとたび妹が「映画やスポーツ中継をみんなで見よう」と言い出せば、話の続きが気になる読みかけの本があっても、ネットサーフィンしたいと思っても、テレビの前に即集合です。
「気が進まないのなら断ればいいではないか」と第三者であれば思うでしょうし、今なら私でもそう思います。
しかし、家族がいう通りにしなければ、彼女は恐ろしく不機嫌になります。「こんなによい映画なのに、なぜよさがわからないの?」とわめき続けたり、聞えよがしに「あーあ、気分悪いわぁ」とつぶやいたり、物にあたるなどのモラハラ行動をおこなうのです。
当時はモラハラと認識していませんでしたが、次第に「逆らって不快になるくらいなら、我慢すればよい」と考えるようになりました。
妹のお気に入りのコンテンツは頻繁に変わるため、母がたまりかねて「もうあなたにつき合うのに疲れた」といってから「みんなで妹の好きなコンテンツを見ようイベント」はおこなわれていません。
こうして、私は自分の気持ちややりたいことに蓋をして、他人の気持ちをまず優先するようになってしまったのでした。
自己分析したことで、自己が確立していないのではないか、と考えた私は色々リサーチすることにしました。最終的に行きついたのは「自他境界」という概念でした。
「自他境界」って何だろう
自他境界とは「自分と他者は別のものである」という境目のようなものです。実は、発達障害者には自他境界が曖昧なひとが多いといわれています。
ただし、発達障害者だけが自他境界が曖昧なのではありません。ストレスや過労などにより精神状態が不安定になり、自他境界が次第に曖昧になっていく人もいます。
「境目」とは肉体的に相手と他人はわかれているという目視での理解ではなく、心の機能として「自分と他者は別のものである」という区別が無意識にできる能力のようなものです。
この自他境界が曖昧になっていると、人間関係に支障をきたしやすくなったり、心の不安定さにつながると言われています。
曖昧な自他境界のパターンは大きく2つの傾向に分けられます。「自分の領域を他人にまで広げる傾向」と「他者の領域を自分にまで広げる傾向」です。
「自分の領域を他人にまで広げる傾向」というのは、他者が自分とは違う生育環境や人生経験から、自分とは違う考え方や、感じ方をする可能性があるという前提がすぐに思い浮かびにくい状態を指します。
このような状態でいると「私がいいと考えていることは、誰にとっても絶対にいいに違いない」「私がこんなに困っているから、この気持ちは口に出さずとも相手にもわかるはず」という思い込みやすくなります。
すると、他人の価値観や信条を尊重できず、自分の考え方を押しつけたり、他者と自分の考えが同一だと信じ切って話を進めようとします。
もちろん、相手は自分と同じ価値観ではないので、衝突することもあるでしょう。その結果、相手の考え方をコントロールしようとしたり、他者から自分と違う意見をいわれると、人格を否定された気持ちになることもあるのです。
一方「他者の領域を自分にまで広げる傾向」は自分を見失いがちで、自分の感情に気つきにくくなったり、自分で物事を選択することが困難になるケースもあります。
はっきりした物いいをする人のいいなりになったり、相手も悪いのに自分にだけ問題があると誤認識してしまったり、自分に向けた批判や指摘を鵜呑みにしてしまうようにもなってしまいます。
家族、友人、恋人が相手に強権的に出る人の場合「こんなダメな自分に辛抱強くつき合ってくれるのは、この人だけ」と共依存になるケースもあるようです。
ここまで調べてみて「私に当てはまるのは『他者の領域を自分にまで広げる傾向』だ」と気がつきました。
次の章では、自他境界が曖昧なことが他にどのような生き辛さを与えたのか、もう少し書いていきたいと思います。
自他境界が曖昧だと起きる困りごとあれこれ
1、他者からの反応がないと不安になる
私は頻繁にSNSで自分の意見などを発信します。そこでコメントしてもらうと承認欲求が満たされ、嬉しくなります。これは私だけに限った話ではないと思いますが。
ところが、投稿内容によっては何も反応がないものもあります。特にTwitterであれば、投稿はすぐに流れていくので、タイミングによっては誰の目にも止まらないこともありえるのです。
それを解っているはずなのに「内容が過激だったのかな」「みんなに嫌われたかな」と不安になってしまい、ついには「きっとみんなをがっかりさせてしまった」と、誰もそんなことをいっていないのに、そう決めつけてしまいます。
この傾向は、趣味の世界でさらに悪化します。
例えば人前で演奏するときに、演奏後「今日は良かったよ」と評価されると安心するのですが、誰からも反応がないと「よくない演奏だったのかな」と落ちこんだり「これまで頑張って練習してきたのに、誰も何もいってくれない」と不満を持つのです。自分勝手も良いところでしょう。
2、「過程」よりも「結果」が全てになる
仕事、趣味、勉学など日ごろの努力の積み重ねがものをいう分野の場合、思ったような評価がえられないと「評価されなかったから、今までの努力も無意味だ」と決めつけることが過去に何度もありました。
熱心に取り組んできた気持ち、技術や知識を身につけるために費やした時間や工夫など、全て無駄だと切り捨ててしまうのは危険です。努力そのものを無意味としてしまうと、次の挑戦におよび腰になりがちです。
加えて「結果が出なければ何もかもダメで、結果が出ることが全て」とするのは「0か100か思考」(白か黒か思考)という、認知のゆがみにつながります。
この「0か100か思考」が悪化すると、たとえば人間関係でトラブルになったとき、自分にも悪いところがあるにも関わらず「私は何も悪くない。相手が全部悪い」と決めつけてしまい、トラブルになりかねません。
こうした考え方を露骨に出してくる人が近くに居ると、気疲れしますよね。少なくとも、私は疲れます。
3、自分の感情が分からず、常にモヤモヤ
自分にとって何か嫌なことをいわれると、不快な気持ちになっても何に対してどう不快なのかがわかりません。「何がどうイヤなのか説明できないけれど、不愉快だ」とモヤモヤし続けることになります。
最近起きた出来事を例にあげてみます。趣味仲間でお茶会をしているときに、私はその場にいないAさんのことを話題にしてしまいました。
「そういえばAさん、来年は難易度の高い大曲に挑戦するんだって。すごいね」
そういうと「それ、私もAさんに聞いた」と同調してくれた人が居たので「来年大曲にチャレンジする人が他にもいるなら、私も便乗しようかな」と話を発展させようとしたときでした。
「Aさんって、基礎がなってないよね。それでむずかしい曲が弾けるの?それにあの人の先生は音大卒じゃないし、先生自身が教えられなかったりしてね」
そんなことを、鼻で笑いながらいった人がいました。次の日以降その発言を思い出しては、もやもやと気分が悪くなり、塞ぎこむことが何日も続きました。
グループホームの世話人さんに話してみたところ「それは感じ悪いね。その人、AさんのこともAさんの先生の事も馬鹿にしてる」といわれたとき「私は仲がいい知り合いを2人とも侮辱されて、悔しかったんだ!」とはじめて気づき、胸のつかえが取れました。
この例のように、他人の助言をきっかけに、自分の感情に気がづくことが多いのです。
また、もやもやすることが複数重なると、説明できない不快感にどう対応してよいか分からなくなり、自分が情けなくて涙が出てしまいます。ひどく落ち込んでしまい、体調が悪化したこともありました。
自分軸で生きてみる
自己を確立し、生き辛くないように他者との境界を明確にするためにどうすればよいか調べてみたところ「自分軸」で生きてみることが、わたしにとっては必要ではないかと感じました。
「自分軸」とは「自分はどうありたいのか」という自分の考えのもとに行動する生き方を指します。
自分がどうしたいのかということを前提として生きているので、周りの評価や反応に過度に気を取られることなく、自分の生きたいように生き、選択したいように選択することができます。
しかし、これまで自分の気持ちではなく他人の反応ばかり気にして生きてきた私が、急にそんな生き方ができるとも思えません。そこで、少しずつ自分軸に移行できるような方法をいくつか探してみました。
1、自分の気持ちをまず確認する
自分の感情に気がづきにくいのは、もしかすると自分の特性なのかもしれませんが、それであればなおのこと意識して生きたいと思います。
まず、いいことにせよ悪いことにせよ何かが起こったとき「わたし、今どう思った?」と自分に問いかけてみることを意識してみようかと考えています。
慣れるまでは、不快なことについては「もやもやした」「イラっときた」くらいしか出てこないでしょうが「何にもやもやしたのか」「どういうことにイラっとしたのか」と、不快になっているものがなんなのか考えてみる習慣をつけたいのです。
2、判断基準を設定する
「他人が自分のしたいことに対してどう思うか」ということを第一に考えるのをやめたいので「自分がどうしたいか」「やりたいかやりたくないか」とまずは自分を尊重してみます。
その上で「多少の迷いがあってもやりたいことはやる」と自分自身の判断基準をもうけることで「他人に自分の行動をどう思われるか」という不安を少しずつ無くしていけるのではないかと考えます。
3、自分の気持ちを「アイメッセージ」で伝える練習をする
特に友人や家族に「自分はこうしたい」「それはやりたくない」という気持ちをいうことが苦手だったのですが、少しずつ意思表示していくことも必要でしょう。
とはいうものの、慣れないうえに、私には多少衝動性があることからキツい物言いになる可能性もあります。そのため、アサーティブな表現のひとつである「アイメッセージ」を意識して取り入れる練習もしていきたいと思います。アイメッセージとは「私」を主語にして意見を主張する方法です。
例えば「発達障害なんて甘えだよね」と心無いことを第三者からいわれたとき「そんなこといわないでくれないかな!」というのは相手に「発言を制限する」という行動を要求する「ユーメッセージ」です。
これをアイメッセージにいいかえてみると「私は『発達障害が甘えだ』とあなたにいわれて、とても傷ついた」となります。その上で相手から反応が無ければ「次からそういうことはいわないで欲しい」として欲しいことを訴えるのです。
いきなりユーメッセージを使うよりは、柔らかい表現になります。クッション言葉の応用形のようなものでしょうか。そういえば、妹に対して母が口にした「(私は)あなたに付き合うのに疲れた」というのは、正にアイメッセージですね。
ここまで書き出してみて、自分軸に生き方を修正していくのはなかなか大変そうだなと感じました。これも生き辛さを軽減するためには必要だと思いますので、無理なくやっていければと思います。
願わくば、このコラムが私と同じように「他人の考えこそが正しい」もしくは「私の意見が正しいはずなのに、なぜみんなそう思わないの」と生きるのが辛くなっている人の、何かのお役にたてますように。
【誰にでもいえる自他境界のお話】
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【自分軸とは?自分軸で生きるための3ステップ徹底解説】
https://goal-b.co.jp/magazine
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