ルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスクと、愛着障害の意外な繋がり

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かつてルーマニアでは、ニコラエ・チャウシェスクによる独裁政権が布かれていました。主な政策として挙げられるのは「堕胎と避妊の禁止」「独身者への増税」で、労働力を増やすために産めよ増やせよの体制を広めようとしていたようです。

しかし、いくら結婚と出産を強いられたところで、育児にかかる費用が補償されていなければどうにもなりません。たちまち育児放棄などで劣悪な環境に捨てられる子どもが急増しました。これは「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれており、「自分の子どもではなく、チャウシェスクの子どもだ」という怨嗟の意味がこもっているとされています。

チャウシェスクの落とし子は、本来の意味での愛着障害と切っても切れない関係にあります。元凶となるチャウシェスクの政治を解説しつつ、なぜ愛着障害が軽々しく使われてはいけない単語なのかにも触れていきたいと思います。

独裁政権の興亡

ルーマニアが社会主義国となっていた1965年、ルーマニア労働者党第一書記であったゲオルゲ・ゲオルギウ=デジが亡くなり、その後継としてチャウシェスクが任命されました。彼は自分の役職名を「ルーマニア共産党書記長」とし、やがて1974年には最高行政権を大統領に移すと共に、自分がその大統領となることで独裁政権を確立させました。

チャウシェスク政権の初期は検閲も緩く、社会主義国家の中では報道や移動や表現の自由が保障されているほうでした。しかし1971年、毛沢東や金日成から強く影響を受けたチャウシェスクは、自分への個人崇拝に大きく舵を切り、「東欧で最も抑圧的な国」にまでなり果てます。

いくら個人崇拝を強めても、オイルショックに端を発する経済の低迷は誤魔化しきれません。経済政策の失敗もあって国民の不満は徐々に募っていきます。80年代からは暴動が増えていき、やがて「ルーマニア革命」へと発展します。

1989年の暮れ、西部の都市ティミショアラでの立ち退き騒動が大規模な抗議運動に発展し、チャウシェスクはこれを武力で鎮圧しようとします。民間人を撃てという非人道的な命令には、一部の閣僚や将校さえも反対し、国防大臣を兼任していたヴァスィーレ・ミーラ将軍に至っては自殺してしまいました。

怒れる国民を止められないと悟ったチャウシェスクは妻を伴い逃走を試みますが、人望を失った独裁者を庇う者などなく、適当な理由をつけての中断を繰り返され、やがて南部のトゥルゴヴィシュテの地で拘束されます。チャウシェスクは国民から慕われ敬愛されていると本気で信じており、この時も現地の兵隊に保護されたと思い込んでいたようです。

1989年12月25日、略式裁判の末にチャウシェスクは夫婦ともども銃殺刑に処されました。この略式裁判の正当性については当時の憲法などから疑問視する意見が今日でも上がっており、ルーマニア政変と呼ばれることもあります。チャウシェスクの独裁政権が終わると、ルーマニアは民主主義へと転換します。

チャウシェスクの落とし子

チャウシェスクが政権を握った翌年に当たる1966年、代表的な政策である「法令第770号」が制定されました。これは労働力を確保する目的で「産めよ増やせよ」を強制する一連の政策です。チャウシェスクはこの法令について「子を持たない者は脱走兵と同じだ」と語っています。

まず中絶と避妊が厳しく取り締まられました。子どものいない女性は中絶を禁止され、子どもが5人未満の母親も避妊薬を売ってもらえません。離婚も原則認められず、25歳以上で子どものいない国民には重い住民税が課されます。反対に、子どもを5人以上産めば行政支援が受けられ、10人以上産めば「母親英雄」の称号を与える褒美も用意されました。

この政策によってルーマニアは多産多死の状態に陥り、生き残った子どもの中からは孤児や無戸籍児が激増します。子どもを捨てる親たちは口を揃えて「チャウシェスクに強制されて産んだ子は、チャウシェスクの子どもだ」と言ったとされ、こうした歪な出生事情から「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれるようになります。

孤児院の環境も劣悪で、「国がいくら孤児院を増やしても職員が足りないので追いつかない」「革命の後も、約10万人の子どもが孤児院で暮らす」「注射器の使い回しなどで孤児にHIV感染が広まった」など散々なエピソードが数多く残っています。

これらの事態を招いた一連の政策はチャウシェスクが死ぬまで続き、ルーマニアが民主化してからは引き継ぎの不手際などで多数のストリートチルドレンを出すこととなります。孤児院に入れられた子どもたちの正確な数は把握されていませんが、推定で約50万人は居たのではないかと言われています。

重い過去あっての愛着障害

ここでようやくチャウシェスクと愛着障害が結びつきます。生まれてすぐ孤児院に預けられた子どもたちは、言うまでもなくネグレクトを受けていることになり、愛着形成どころではありません。愛着理論においては「乳児の情緒的成長には、1人以上の保護者たる大人が欠かせない」とされており、それに背くとどうなるかは「チャウシェスクの落とし子」が厳しく教えてくれました。

チャウシェスクの落とし子のように、ネグレクトで愛着形成どころでなくなった子どもは将来、自尊心や社会性が育たず他人とのコミュニケーションが取りにくくなり、社会生活で「生きづらさ」を感じやすくなります。これを「愛着障害」といい、成人後は精神疾患になるリスクが高まります。

ルーマニアの孤児たちは、一部がイギリスなど外国の里親に引き取られていきました。それに伴う追跡調査によると、里親に引き取られる年齢が遅れるほど愛着形成のやり直しも難しくなり、将来に禍根を残しやすくなることが明らかになっています。

ルーマニアの孤児が置かれた環境は壮絶なものでした。そのため、愛着障害は本来軽々と診断できるものではなかった筈です。しかし実際は、自閉スペクトラムと愛着障害で診断に迷ったり誤診したりする医師が居るのが現実で、暗に「親の愛が足りない」とほのめかす診断が親を苦しめることさえあります。

「大阪メンタルクリニック」では、愛着障害の原因として以下を挙げています。
養育者との死別や離別などで愛着形成の対象がいなくなる
養育者によるネグレクトや無視や無関心
養育者が頻繁に変わる
養育者による厳しすぎるしつけ、体罰、身体的虐待
きょうだいと差別されたり優劣をつけられたりした
極端に褒めない環境
いずれも壮絶な環境で、先進国ではそう頻繁に起こる事例ではありません。愛着形成において大切な乳児期をネグレクトや体罰で潰しておいて、いきなり子どもの発達を不安に思い病院へ連れて行くのは不自然でしょう。

ルーマニアの孤児などに見られた本来の意味での愛着障害は、現代日本の診療ではお目にかかる方が珍しいレベルです。それこそ、一度も会ったことがない児童精神科医さえ存在するくらいです。子どもと一緒に来院する時点で愛着障害の線はほぼ消えているので、親としてのあり方で悲観的になる必要はないかもしれません。


参考サイト

愛着障害|大阪メンタルクリニック梅田院
https://osakamental.com

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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