5回目のデプレッション②〜2回目のうつはマリッジブルー?
うつ病◀︎前回のページ:5回目のデプレッション①~初めてのうつ病は突然に
長い冬も終わりに近づき、トンビの鳴き声が印象的な晴れの日。駅前で妻は私の頬に口付けし、さよならと涙を流しながら改札に向かいました。今になって思うと、そこまで彼女を追い込んでしまったのは自分だったのではないか。それはうつ病に侵された影響で「悲観的で何でも相手の責任にして追求してしまう自分」だったのではないだろうか。今の私なら何とか乗り切れていたかもしれないのではないかと、ふと考えたりします。
出会いは復職後に
1回目のうつ病から復職して間もなく、私は後に妻となり離婚することになる女性と出会いました。復職に併せて担当地区が変わり、長野県の松本市に住むことになりました。山梨で出来た友人たちとの交流も続いていましたので、週末は松本から甲府へ遊びに行くこともしばしば。彼女に出会ったのは甲府だったので、週末は甲府、平日は仕事のため松本と行き来する生活が続き、やがて結婚することになりました。
新婚生活とうつと諭旨退職
基本的には結婚生活そのものはとても幸せでした。復職後仕事も順調に進む中での結婚でしたので当初は想像以上に順調だったかと思います。そんな中で私のうつ症状が再燃しだしました。どっちが先かは分かりませんが同じ頃から彼女の様子が急に変わる瞬間が何度かあり、精神科に通うことになりました。徐々に仕事と家庭生活を両立することが苦しくなり、仕事に行くことが出来なくなりました。うつ病だと会社での誤解もまだまだあるだろうからと、診断名は自律神経失調症・適応障害でした。心電図の結果をもとにしたエビデンス付だったので、前回ほど自分を責めすぎるようなことはなかった代わりに矛先は妻に向いていたかもしれません。妻は精神科で処方された薬と併せて飲酒をしたことがきっかけで何度か問題行動を起こすようになります。当時MRだった僕でもその精神科医がアルコールで問題が起きているにもかかわらず同じ薬を処方し続けていたのかは分かりません。二人の結婚生活は破綻していき、維持できなくなっていきました。断腸の思いでした。遠方にいる相手方の母親に迎えに来てもらい、娘を連れて帰らないといけないその姿に胸を締め付けられました。離婚届を送ったのは実家に戻ってから27の誕生日を迎えた頃でした。数ヵ月後会社の人事役員との面談の際、「君には営業は向いていないのではないか」と自己都合での退職を勧められました。
自立のための決断
ドラマ「白線流し」の主題歌や、当時よく聞いていた「雪の華」を聞くと、松本市での生活が思い出され、胸が締め付けられます。彼女は実家に戻った後、酒もタバコも絶ち、別の男性と再婚し、3人の子どもに恵まれているようです。私にとっては彼女が自立して子育てが出来るようになっていてやっと救われました。
1回目のうつから復職して間もなく結婚と離婚、そして退職に至り、ようやく私は治療に専念しました。復職したての私は何かいつも後ろめたいものを常に感じていました。今思うとおそらく自己肯定感が下がっていたのではないかと思います。正直様々な意味で焦っていました。うつになると「重要な決断は出来るだけ避けたほうが良い」とうつ病に関連する本やサイトではよく見かけますが、その原則を完全に無視してしまっていた結果かも知れません。とはいえ、うつ病を患ったことに関して、「営業に向いていない」という言葉は私の自尊心を大きく傷つけたことは間違いありません。この時も結局のところ僕がうつになった直接的な大きな原因が何だったか上手く説明できませんでした。お互いが自立した生活が送れるようになるためには必要な決断だったと思います。
▶︎続きのページ:5回目のデプレッション③〜抗うつ剤は禁断の果実?
参考文献
みんなのメンタルヘルス・うつ病
https://www.mhlw.go.jp/kokoro/index.html
ウイキペディア 白線流し
https://ja.wikipedia.org/wiki/メインページ
うつ病