ローズマリー・ケネディ~後天的知的障害/世間体と偏見に翻弄された生涯

知的障害
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アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディの親きょうだいは、その多くが数奇な運命を辿ってきました。オカルト愛好家などの間では「ケネディの呪い」と呼ぶことに関して議論が絶えません。

その一方、ケネディ家はアメリカ国内でも有数の「華麗なる一族」として有名です。ゆえに世間体や評判には非常に敏感で、父ジョセフは悪評を未然に防ぐために奔走したこともありました。その一つが、知的障害を持つ長女ローズマリーの秘匿です。

世間体を重んじる父ジョセフの思惑や当時盛んだった障害者への偏見などに翻弄され続けたローズマリーの人生を追ってみたいと思います。

ローズマリー、誕生

1918年、父ジョセフと母ローズの第三子ローズマリー・ケネディは誕生しました。しかし、その際に起こった人為的な医療ミスによって脳に十分な酸素が行きわたらず、ローズマリーはいきなり後天的な知的障害を負う羽目になりました。

ローズマリーの知的レベルはIQ60~70程だったとされています。知的障害としては軽度ですが、それでも当時の未熟な福祉観では白眼視されるに足るものでした。たとえ人為的な医療ミスで障害を負ったとしても、「悪い遺伝子があるに違いない!」と疑われる程度の意識だったのです。

そのため、ローズマリーはその存在を隠されるように育てられ、母ローズは信頼のできる人にしか教育させませんでした。15歳で聖心女子学院に進学したローズマリーは、専任のシスター2人と教師1人から今でいう支援学級で教わります。学習レベルは小学4年生並にまでなりました。

この頃は両親とも文通しており、母ローズは筆記体の読めないローズマリーのためにタイプライターで手紙を書いていました。一応気にかけていたことが窺えます。

娘の癇癪、父の危惧

ケネディ家の教育方針は厳格でしたが、それによって子どもたちは上品な所作を身体に染み込ませていきました。もちろんローズマリーも例外ではなく、オペラやダンスを嗜む一面もありました。

父ジョセフが駐英大使になったことで一家がイギリスへ越した際、母ローズらはジョージ6世国王とエリザベス王妃へ拝謁する機会を得ます。拝謁するメンバーは母ローズと次女キャスリーン、そしてローズマリーでした。イギリス王室向けのマナーを体得したローズマリーは、大過なく拝謁の任を完遂します。イギリスでのローズマリーは幼稚園児に本を読み聞かせるなど美貌と慈悲の備わった女性でした。

その一方、ローズマリーは成長するにつれて我が強くなっていき、思春期からは癇癪を起こすようにもなりました。優秀なきょうだい達についていけない苛立ちや父親からのプレッシャーなど、様々な要因から怒りを爆発させて暴れることがあり、家族も段々と手を焼くようになります。ケネディ一家は1940年にイギリスを離れるのですが、ローズマリーだけ1人残されました。

1941年、父ジョセフから1年遅れで帰国したローズマリーは修道院付属学校に入れられ、毎日過密なスケジュールに追われるようになりました。きょうだい達も忙しいのかローズマリーのもとへ訪れることもなく、事実上の軟禁状態に陥ってしまったのです。

当然、受け入れられないローズマリーは夜な夜な修道院を抜け出しては自由を謳歌していました。ローズマリーが夜の街へ繰り出していると知った父ジョセフは、娘の素行がいよいよ自身の政治活動にとって妨げになるのではないかと危惧します。

ロボトミー、そして勘当

ケネディ家は敬虔なカトリック教徒のため、もしローズマリーが男女問題など起こそうものなら父ジョセフにとって致命的な醜聞となってしまいます。対策の為ジョセフが助力を乞うた相手は、ウォルター・フリーマンという当時ロボトミー手術の権威と呼ばれた医師です。

フリーマンが過去に手術してきたのは当時の精神医学では太刀打ちできない重度の患者ばかりでした。抱える障害が比較的軽度なローズマリーに対して、ロボトミー手術はまさに「牛刀を以って鶏を割く」大袈裟な手段です。しかしジョセフは周囲の反対を押し切り、独断で手術同意書にサインしました。

当然、ロボトミー手術は失敗に終わり、ローズマリーの知的障害はより重くなったほか半身麻痺や尿失禁などの後遺症まで加わりました。父ジョセフはこれを悔いるどころか、重度知的障害者となったローズマリーを居ないものとして扱い、二度と顔を合わせることはありませんでした。ローズマリーが23歳の時のことです。

1949年、ローズマリーの身許はあちこちの施設を巡った末にセント・コレッタという施設へと落ち着きます。セント・コレッタのあるウィスコンシン州とケネディ一家の地元であるマサチューセッツ州では1800km前後(車での移動距離は稚内~名古屋間に匹敵)離れており、ほとんど勘当同然だったと言えるでしょう。それでも母ローズは1度だけ見舞いに訪れましたが、変わり果てたローズマリーに失望し絶縁してしまいます。

絶縁状態はローズマリー側が年に1回の頻度でマサチューセッツ州へ訪れるようになって収束したのですが、ローズマリーの甥や姪が盛んにコミュニケーションをとる一方で母ローズは嫌々迎えていたそうです。

批判と反動、そして安らかな死

1961年に次男ジョンが大統領となったのですが、有名税の前払いとばかりに身辺の様々な事が白日の下に晒され、それまで隠されてきたローズマリーの存在と来歴が全米に知れ渡ります。20年以上前に比べて人権意識は高まっていたため、ケネディ家は痛烈な批判を受けることとなりました。

その反動かジョンは福祉政策に力を入れ、精神障害者を安易に病棟や施設へ入れない案を打ち立てました。しかし1963年にダラスで暗殺されたことにより、一連の政策は頓挫します。一方、三女ユニスは障害者を集めたデイキャンプを行い、これが国際的な知的障害者スポーツ団体及び大会である「スペシャルオリンピックス」の原型となります。

ユニスはケネディ家で最もローズマリーを気にかけており、何度も見舞いに行っていました。その影響か「スペシャルオリンピックス」は一時の批判逸らしに留まることなく成長し続け、知的障害者スポーツにおける一つの到達点にまでなります。

ロボトミーから64年が経とうとしていた2005年、ローズマリー・ケネディは享年86歳で天寿を全うしました。三女ユニスをはじめ、四女パトリシア、五女ジーン、四男エドワードに看取られながら永眠したのです。ケネディ家のきょうだいでは初めて自然死したのもローズマリーでした。

スペシャルオリンピックスの選手宣誓は第一回大会におけるユニスのスピーチが元となっており、現会長を務めるのもユニスの息子ティモシーです。こうして見るとスペシャルオリンピックスの成長と存続には、ユニスからローズマリーへの贖罪の意志があるようにも思えてしまいます。

参考サイト

ローズマリー・ケネディ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org

【最終回】大統領の消された妹:アメリカのファッション史を築いたケネディ家の女たちの光と影
https://www.elle.com

ロボトミー手術を受けたローズマリー・ケネディの生涯
http://netabare1.com

遥けき博愛の郷

遥けき博愛の郷

大学4年の時に就活うつとなり、紆余曲折を経て自閉症スペクトラムと診断される。書く話題のきっかけは大体Twitterというぐらいのツイ廃。最近の悩みはデレステのLv26譜面から詰まっていること。

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